田舎暮らし in 熊野

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循環する生命 〜宮沢賢治の『なめとこ山の熊』を読んで〜

人間を含むすべての生物は、他の生物の命を奪うことで生きています。食べるとはそういうことです。これは冷徹な事実ですね。では、他の生物に食べられてしまった生物の命はそこで終わりなのでしょうか。イエスでありノーでもあると思います。個体的生命としては確かに終わりです。ただ、生命全体で考えるとそうではないと思われます。食べられた生物は、食べた生物の中に栄養として取り入れられることで、他の生命を支えます。他の生命に食べられずに死んだ生物も、やがて土に帰り、植物の養分となります。つまりは大きく見ると、生命は循環していると言えるのではないでしょうか。

 

宮沢賢治の童話『なめとこ山の熊』は、大きな意味での生命の循環を暗示している話に思えました。新潮文庫版『注文の多い料理店』の最後に収録されています。

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この話は、なめとこ山を舞台にした、勇猛な熊猟師、小十郎と熊たちをめぐる物語です。小十郎は生きるために熊を狩ってくらしています。小十郎は憎しみからではなく、生きるために致し方なく熊を殺しています。「申し訳ない、許してくれよ」と熊に語りかけながら。ある日、いつものように熊狩りをしていた小十郎は、大きな熊に遭遇しました。その熊が襲いかかってきました。落ちついて鉄砲を打ちましたが、熊は少しも倒れず、小十郎に襲いかかりました。意識を失いつつある小十郎は、熊の言葉を聞きました。「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」小十郎は最後にこう言いました。「熊ども、ゆるせよ」小十郎は息を引き取りました。

 

生きるためには他の生物の命を奪わざるをえないという冷徹な自然の掟。それと同時に奪った命に対する申し訳ないという気持ちや感謝の念を忘れないこと。最後には自らも命を奪われ、他の生物の糧となることで、生命が循環していくこと。この童話はそんなことを伝えたかったのではないか、私はそう思いました。

 

現代人は食料となる生物の死に立ち会うことはほとんどありません。さらに「死」について語ることや考えることすらも、ほとんどタブーになっており、本当の意味での生きるということの厳しさ、優しさ、そして生命の循環についてなかなか考える機会がなくなっているのかもしれません。この童話を通して、生きることの厳しさ、優しさ、生命の循環について考えさせられました。童話というと、子供向けの幼稚な話と思われがちですが、この童話には生命に対する深い洞察が示されているように思われました。物語はこう締めくくられます。

 

「思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのように冴え冴えして何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった」