田舎暮らし in 熊野

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絶望の伝道師、ミシェル・ウェルベックとは?

「ぼくは1人の女性を幸せにできたかもしれない。または2人を。それが誰かはすでに話した。最初から何もかもがあまりにも明白だった。でもぼくたちはそのことを考慮に入れなかったのだ。個人の自由という幻想に身を任せてしまったのだろうか、開かれた生、無限の可能性に?それもありうる、そういった考えは時代の精神だったからだ。ぼくたちははっきりと言葉に出しては言わなかったと思う、関心がなかったのだ。ただそれに従い、そういった考えに身を滅ぼされるに任せ、そのあと、長い間、それに苦しむことになったのだ」(関口涼子訳)

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フランスの小説家、ミシェル・ウェルベックの最新作『セロトニン』の中の文章です。ウェルベックはフランス最高の文学賞であるゴンクール賞も受賞している、現代ヨーロッパ文学を代表する作家です。過激な描写や暗鬱な現代文明批判などで物議を醸している作家でもあります。ウェルベックの小説は、一貫して現代文明、高度資本主義社会に生きる人間の退廃、孤独、絶望を描いています。その中でも特に『セロトニン』は救いのない「絶望的」小説です。私自身、本作を読んで心が痛みました。と同時に心を打たれました。偽善、欺瞞の類いがなく、現代人の苦悩を真正面から描いていると感じたからです。個人主義は人間を孤独に追いやり、高度資本主義社会は人間から全体性を奪い、人間を「部品」に変えてしまったのかもしれません。現代文明の行き詰まりを打破するためには、安易に楽観主義を頼るのではなく、まずは厳しい現実を直視する必要があると思います。絶望の闇の彼方から希望の光が現れてくるのかもしれません。

 

主人公はフランスの上流階級に属しています。エリート校を卒業後、モンサント(実在する世界的な農薬、種子メーカー)で勤務します。効率優先の「工業的」農業に疑問を抱き、モンサントを退職し、質の高い農業を行う地方の小規模農業者を支援する公職に就きます。そこで主人公は小規模農業者が直面している厳しい現実を目の当たりにします。有機農法などの質の高い農業は、なかなか採算が取れず、ビジネスとして成立していないという現実を。1人の農業技師として出来ることは限られているということを。私生活では愛する人と別れ、親しい人たちとも疎遠になり、徐々に引きこもりになっていきます。薬物依存、アルコール依存に陥っていきます。そして、じわじわと死に向かってゆきます。

 

主人公は社会的地位は高く、容姿も淡麗です(と設定されています)つまり、他者や社会から疎外される立場ではないにも関わらず、自ら孤立を選んでいきます。自ら選んだといっても、積極的、意思的なものではなく、「なんとなく」選んでしまっているように思えます。冒頭の引用に戻ります。

「個人の自由という幻想に身を任せてしまったのだろうか、開かれた生、無限の可能性に?それもありうる、そういった考えは時代の精神だったからだ。ぼくたちははっきりと言葉に出しては言わなかったと思う、関心がなかったのだ。ただそれに従い、そういった考えに身を滅ぼされるに任せ、そのあと、長い間、それに苦しむことになったのだ」(関口涼子訳)

 

自らが積極的、意思的に選び取った自由ではなく、時代から与えられた、借り物の、もしくは幻想の自由、その中で苦しんでいるのが現代人ということでしょう。

 

自由は善か悪か、という議論は不毛だと思います。自由には光と闇の両面があるのでしょう。行動の自由、表現の自由、選択の自由は素晴らしいと思います。ただ、自由が行き過ぎれば孤独に陥ります。現代人は自ら意思的に自由を選び取ってはいないため、自由の負の側面を事前に察知し難いのかもしれません。心の準備がないまま、自由がもたらす苦悩に遭遇することで、苦悩が深刻化する、そんな世界に生きているのかもしれないですね。自由は絶対不変の価値でもなければ、至高の真理でもなく、良いところも悪いところもあり、状況に応じて自由の程度のバランスを取る必要があるということでしょう。

 

いかがでしたでしょうか。ウェルベックは『セロトニン』で現代文明社会に生きる人間の退廃、孤独、絶望を残酷なまでに生々しく描きました。この小説に「救い」はないのでしょうか。一読すると、確かに「救い」は皆無です。ただ、深読みすると、ウェルベックは絶望を描き切ることで、絶望の先にある希望の光を描こうとしたのではないか、とも思えます。絶望に向き合い、克服することで希望が生まれる、そんな逆説的幸福論を遠回しに述べているような気がします。シェイクスピアの戯曲『アントニークレオパトラ』の中のセリフを引用して終わります。

 

「この救いようのない、寂しさこそ仕合せの始まりなのだ」(福田恆存訳」