田舎暮らし in 熊野

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コロナは世界をどう変えたのか 〜コロナ狂騒曲の終わりに〜

ようやくコロナ狂騒曲が終わろうとしています。

 

WHOは5/5に新型コロナウイルス感染症の緊急事態宣言を解除し、日本でも5/8に5類感染症に移行となりました。コロナが消滅したわけではありませんが、今後は季節性インフルエンザのようなウイルスとして、人類と共存していくことになるのでしょう。

 

長かったです。3年以上経ちました。コロナが始まった時には私は熊野の限界集落に住んでいました。都会に比べるともともと人の出入りが少ない場所ですし、年配の方が多いので、コロナに対する恐怖心は大変なものでした。もちろん田舎だけではなく、都会でも外出の自粛要請や飲食店の時短営業など、非常事態が続きました。

 

多くの死者、コロナ感染者に対する差別、自粛警察、コロナ関係補助金の受給資格をめぐる国民の分断、ワクチン推進派、反ワクチン派の対立、マスク着用をめぐるトラブルなどなど日本社会に様々な禍根を残しました。

 

コロナが一段落した今、コロナは世界をどう変えたのか、もしくは何を変えなかったのかを考えてみます。

 

私はコロナ禍の初期の2020年の3月と4月に当ブログでコロナが世界をどう変えるのか、というテーマで3つの予想をしました。

まずこの検証をしたいと思います。

 

①グローバリズムの衰退とナショナリズムの復活

②超監視社会の到来

③都会から地方への大規模な人口移動は起こらない

 

グローバリズムの衰退とナショナリズムの復活

予想通りになっていると思います。

コロナ禍によって非常事態においてはどの国も自国優先にならざるを得ないということが明らかになりました。各国は輸出を禁止するなどして重要物資の囲い込みを図りました。実際の危機対応をするのもそれぞれの国家であり、国際機関ではありません。重要物資(食料、エネルギー、医療品、半導体など)を他国に頼り過ぎるのは危険だとという認識が世界中に広がっています。日本でも経産省が重要物資の国内生産回帰に補助金をつける形で積極的に支援するようになりました。アメリカでもEV補助金などを通じて自国企業を優遇しています。半導体の囲い込みも各国で進行中です。コロナ禍だけではなく、ロシアのウクライナ侵攻や中国の対外拡張なども関係しているでしょう。

 

②超監視社会の到来

日本においては超監視社会はまだ到来していないと思いますので、予想は外れたかなと思います。ただ、長期的には依然あり得るシナリオです。

感染拡大阻止を名目にして国などが個人の健康情報、生体情報を取得、管理するようになるのではないか、と予想しました。日本でもCOCOAなる新型コロナウイルス接触確認アプリを国が出していましたが、まともに機能したとは思えないですし、普及もしませんでした。中国などではもしかして個人の生体情報なども管理され、超監視社会が到来しているのかもしれませんが、日本では現状ではそこまでの段階には来ていないように思われます。

 

③都会から地方への大規模な人口移動は起こらない。

これは予想通りでした。

コロナ禍の一時期、テレワークの普及などで東京から地方へ人が流れました。短期的に東京は転出超過となりました。東京はずっと転入超過でしたので、マスコミでもセンセーショナルに報道されていました。これから地方移住が進むなどと。でもそうはなりませんでした。最近では東京に人が戻ってきて、また転入超過となっています。関東大震災でも東京大空襲でも、東日本大震災でも長期的に見ると東京への人口集中は止まりませんでした。誤解を恐れずに言えば、コロナ禍くらいで人口の大移動が起こるとは到底思えませんでした。

 

予想の結果検証はこれくらいにして、コロナによって明らかになったことは、日本人の国民性は戦前から全くもって変わっていないということです。

空気による支配、同調圧力

政府は国民に外出禁止令、マスク着用命令、ワクチン接種命令を出したわけではありませんが、おおむね多くの人が政府の要請に自主的に従いました。これはほとんどの場合において、国民一人一人が熟慮して納得の上で従ったのではないと思います。なんとなく周りから浮きたくない、後ろ指を指されたくないから従ったというのが実態だと思われます。この同調圧力は良い方向に作用すれば団結力や協調性となります。東日本大震災の時の日本人の規律の高さは世界中から称賛されました。ただ、悪い方向に作用すると、最悪の結果をもたらします。まず同調圧力や空気の内容自体が誤っていた場合です。先の大戦の時、日本が負けるはずはないと、されていました。この考えに従わない人間は非国民と罵られ、弾圧されました。結果的に日本は壊滅的な敗戦を経験することになりました。歴史を鑑みると、多数派が常に正しいとは言えません。次に無責任体質。空気などという曖昧な雰囲気に支配され、物事がなんとなく進みますと、失敗した場合にだれも責任を取りませんし、そもそも取れません。その結果、失敗の検証もなされず、また同じ失敗を繰り返すことになります。最後に思考力の欠如。自分で何が正しく、何を為すべきかを考えずに、空気に流されていては、思考力は育ちません。

では空気による支配、同調圧力という日本人の国民性はコロナ禍でどのように作用したのでしょうか。プラス面を上げると、非常事態においても大きな社会的混乱が起こらなかったことでしょう。海外では外出禁止令やマスク着用令などに反対する暴動も起こりました。日本では命令ではなく、「要請」であったにも関わらず、大多数の日本人は粛々と従いました。日本人にとって、周りに迷惑をかけてはいけない、和を乱してはいけないという意識はとても強いですね。マイナス面は、見えない圧力で異論を封殺する傾向があることです。名前のある誰かや権力組織が命令したわけではないので、議論することもできません。なんとなくの空気で同調圧力が形成され、異論の存在を許さない社会。不要不急以外の外出を控えなければいけない空気、マスクしないといけない空気、ワクチン打たないといけない空気、人の集まるイベントを開いてはいけない空気などなど。物事には必ず光と影があり、効能に対しては副作用があります。一度空気が形成されてしまうと、こういった冷静な議論がなかなかできないのは、日本社会の大きな問題点だと思います。こういった指摘は、山本七平の『空気の研究』や戸部良一他の『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』などで昔から繰り返してなされてきましたが、結局変わっていないと言わざるをえないでしょう。

日本的な空気の支配を考える時、フランスの哲学者ミシェル•フーコーの『監獄の誕生』を思い出します。この本は権力が歴史的にどのように行使されてきたのかを述べています。中世以前には主に処罰によって権力は行使されてきました。具体的には拷問などです。近代以降は監視によって権力は行使されるようになりました。監視というと、監視カメラ、盗聴、検閲などが思い浮かびますが、フーコーが述べている監視はこれらの物理的な監視とは異なります。監視の内面化です。功利主義者のベンサムは、パノプティコンという監獄施設を構想しました。パノプティコンは、一望監視施設などと訳されています。円形の刑務所で、中心に監視塔が立っており、それを取り囲むように監獄が配置されています。監獄から監視塔の中は見えません。対して監視塔からはすべての監獄が見えるようになっています。ここで重要なポイントは、監視塔の中に実際には誰もいなくても、囚人たちは自分たちが監視されていると思い込み、権力に従うようになるという話です。かつて権力は剥き出しの暴力というかたちで外面化されていました。近代に入り、権力を行使する人間は、支配対象の人間に対して監視されているという思い込みを植え付けることで権力を内面化させたのです。この監視システムは監獄だけではなく、学校、病院、会社などあらゆる現代組織のなかにも見られます。パノプティコンの監視塔に当たるのが、日本におけるある種の空気なのではないでしょうか。実際には中身は空っぽで実態はないにも関わらず、我々は何かに監視されているように思い込み、従っているのかもしれないです。

私は監視塔や空気の存在そのものを批判しているのではありません。空気の存在は日本社会の安定にも寄与してきたと思いますし、監視による社会の規律化も必要でしょう。ただ、絶対視するのは危険だと思います。人間や人間の作り出した社会は必ず間違える可能性があります。こういった可謬性の認識を持って、安易な決めつけをせずに冷静な議論のできる場を残しておくことが本当の意味での社会の安定につながるのではないか、と思いました。

 

冒頭の問いに戻ります。

コロナは世界をどう変えたのか。

グローバリズムの衰退とナショナリズムの復活、テレワークの普及による働き方の変化、ネット通販の普及などは起こりました。ただ、人口の大移動や国民性の変化というような巨大な変化は起こらなかったといえるでしょう。