田舎暮らし in 熊野

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ゼロベース思考は可能か?

我々は特定の思考の枠組みや、狭い考え方に囚われてはいないでしょうか。ゼロベース思考とは、思い込みや既成概念を一旦捨てて、ゼロから考えることです。果たしてゼロベース思考は可能なのでしょうか。

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構造主義を代表するフランスの哲学者、ロラン・バルトの著書『エクリチュールの零度』を通して、果たして人間は自由な思考が可能なのかについて考えてみます。この本は私が最も影響を受けた本の一つです。この本を通して、人間は自分の頭で自由に考えているようにみえて、実はほとんど全てにおいてそうではないことに気付かされました。知らない内に特定の思考の枠組みに囚われているのだと。

 

バルトは言語を三つに分類します。一つ目はラング、二つ目はスティル、三つ目はエクリチュールです。ラングとは言語体のことです。日本人にとってのラングは日本語です。日本語を自ら選択して生まれてきた人はいませんね。ラングとは先天的に与えられた言語であり、そこに個人の選択の余地はありません。日本人に生まれたら、否応なく日本語で思考します。スティルとは文体のことです。文体とは言語を使う際の個人の癖のようなものです。谷崎潤一郎のように流麗な文章を書く人もいれば、三島由紀夫のように論理的、構築的な文章を書く人もいます。文体は人それぞれであり、生得的なものです。ここにも選択の余地はありません。そして最後にエクリチュールとはラングとスティルの中間の言語概念です。

 

エクリチュールとはある種の社会的な言語であり、個人の自由で選択が可能であると、バルトは述べています。エクリチュールの例を上げてみると、政治家のエクリチュール、役人のエクリチュール、インテリのエクリチュール、漁師のエクリチュール、女子高生のエクリチュール、医者のエクリチュール、京都人のエクリチュールなどです。それぞれの社会集団の中でのみ完全に通じる言語のようなものでしょう。所謂、永田町用語は政治家のエクリチュールの代表例でしょう。関係者でないと何を言っているのかよく分かりませんよね。

 

エクリチュールは個人の自由で選択可能であるということは、エクリチュールにおいて人間は完全に自由な思考が可能になるのでしょうか。バルトはこう述べています。

エクリチュールとは、まさしく、このような自由と記憶との妥協なのである。それは、選択の所作のなかにおいてしか自由ではなく、その持続のなかにおいてはすでにもはやそうではないところの、このような記憶する自由である。たしかに、私はこんにち、あるなんらかのエクリチュールを自分に選び、その所作のなかにおいて私の自由を確認し、ある新鮮さなりある伝統なりを持つと主張することができる。けれども、徐々に、他人の語、そしてさらには私自身の語の虜囚となることなしに、ある持続のなかでそれを展開することは、もはやすでにできない。(森本和夫、林好雄訳)」

つまり、エクリチュールを選択する一時点において人間は自由であるが、その後はエクリチュールの虜囚になるということですね。医者になるかどうかは、個人の選択の自由だとしても、一度医者になってしまえば、医者のエクリチュールに囚われてしまうということでしょう。確かにその通りだと思います。特定の社会集団の中では通じても、その外に出ると通じない話、よくありますよね。なんで分かってくれないのだと相手を責めても仕方ないのでしょう。自分と相手で使っているエクリチュールが違えば、話が通じない、噛み合わないのは致し方ないと言えます。

 

結論はゼロベース思考や自由な思考は、エクリチュールの選択をする一時点においてのみ可能であるということです。自分では自由に考えているように思っていても、実はほとんどの場合において特定の思考の枠組みに囚われていると考えた方がいいのでしょう。このような認識を持っておけば、自分と意見の異なる人々を徹底的に非難するようなことはなくなると思われます。社会の分断が進んでいる現代社会において、この本を読む意義があると思います。