田舎暮らし in 熊野

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芸術における美は「必要」から生まれるのか。〜坂口安吾の『日本文化私観』を読んで〜

「必要は発明の母」ということわざがありますね。「必要は芸術における美の母」とも言えるのでしょうか。『堕落論』などで有名な無頼派の作家、坂口安吾のエッセイ『日本文化私観』を通して、芸術における美について考えてみます。

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坂口安吾はエッセイの中でこう述べています。

「美は、特に美を意識して成された所からは生まれてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、かきつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たわいもない細工物になってしまう。これが、散文の精神であり、小説の真骨頂である。そうして、同時に、あらゆる芸術の大道なのだ」

 

坂口安吾の言う「必要」とは、どうしても伝えたいメッセージのような意味だと思われます。内容といってもいいでしょう。例えば、愛の素晴らしさであったり、高度資本主義社会における人間の退廃などです。確かに、書くきっかけとして内容は大切ですが、小説や詩などの芸術においては、内容よりも文章という形式(表現)そのものの方が重要だと思います。

 

夏目漱石は『それから』『こころ』『明暗』などの小説で、自我と外の世界との葛藤という内容を丹念に書きました。誰しも多かれ少なかれ、自我と外の世界との葛藤を抱えていると思います。つまり、テーマ自体に独自性があるわけではありません。夏目漱石は内容の秀逸さによってというよりも、表現の卓越性において大作家となったのではないでしょうか。私は作家ではないので分かりませんが、作家はいかに美しい文章を書くのかについて絶えず意識して書いているはずです。坂口安吾は「美は、特に美を意識して成された所からは生まれてこない」と述べましたが、そんなことはないと思います。

 

誤解のないように述べておきますと、坂口安吾は内容は美に先行すると述べているのであって、内容そのものが美であるとは言っていません。独自の形態(表現)が美を生むとも述べています。つまり、どうしても伝えたい内容イコール美とは述べていませんし、独自の形態(表現)がなければ美は生まれないことも示唆しています。ただ、内容自体の重要性を強調し過ぎているように思えます。

 

いかがでしたでしょうか。坂口安吾は芸術における美は、どうして伝えたい内容(必要)があって初めて生まれると述べています。私も、確かに表現のきっかけとして「内容」は必要であるが、表現そのものの方がより大切だと思っています。