雨の日は憂鬱、は本当か
梅雨真っ盛りですね。雨が降るとなぜか気分が乗らないですよね。なぜなんだろう。作家の川上未映子さんは、『僕はもう、うきうきしない』というエッセイの中で、雨の日はうきうきしない気持ちについて書いています。なるほど、と思いました。
川上未映子さんは、元歌手にして、映画に出演されたこともある多才な方です。自然体でありながら、はっとさせる奥の深い文章をお書きになって、個人的には、最も好きな現代日本作家のうちの一人です。
なぜ雨の日は、うきうきしないのか。川上さんはこのようなことを述べています。雨の日に外を歩くと、身につけている物が濡れてしまう。それだけのことではないのかと。ムートンのコートや革の鞄が濡れたら嫌ですよね。もし、レインコートや長靴を履いて雨の中を歩くとしたら、むしろうきうきするのかもしれない。つまり、自分自身とは何一つ関係ないということで。
歌手の古内東子さんの『Enough is Enough』という曲にこのような歌詞があります。
「グレーの雨雲に 半分隠れてるタワー おろしたての高めの靴が 濡れるなんて憂鬱」
これも同じことを言っているのでしょうね。私自身も、雨の日にスーツや革靴で外を歩くのは、憂鬱、とまではいかなくとも、なんか嫌な感じです。特に水浸しになった革靴で歩くのは、なんとも気が滅入ります。
川上さんは、子供のころの雨の思い出を語ります。子どものころは、服を着ていても、靴を履いていても雨に濡れることは嫌なことではなかったと。本当の意味で物なんて何も所有していなかった、そんな時代だったのだなと。
「靴の中で踏む雨水の感触。前髪からしたたってくる雨のみちすじ。オレンジ色と夕暮れと金色がすこしずつ混じってたなびいて、やがて太陽を沈めてしまうあの匂い。雨といって思いだすのは、どこかしらやっぱり鮮やかな印象のものばかりだ」
結論。人間の世界に対する認識は、かなりの程度、物によって左右、いや支配されているのではないか。自分自身のほんとうの考え、感性といったものは、意外と分からないものかもしれない。所有物の少ない子どもの方が大人より、曇りのない目で正確に世界を見ているのかもしれない。ある意味で。