田舎暮らし in 熊野

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長崎で見つけた、機械と人間の温かな関係

10年ぶりに私の愛する街、長崎を訪れました。その際に、長崎のグラバー園で面白い公衆電話を発見しました。その名は、

「自働電話」

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この電話ボックスは、明治時代に東京の新橋に設置された我が国初の公衆電話を再現したものです。当時は公衆電話のことを自働電話と呼んでいたようです。気になったことは、「自動」ではなく「自働」という漢字を用いていることです。共に自らうごくという意味ですが、ニュアンスの違いが感じられます。「自動」とは人の手を介さずに機械的に何かをうごかすという意味でしょう。対して「自働」は、漢字ににんべんが含まれていることから推測できるように、人間の手を入れながら物をうごかすという意味に思われます。

 

現在、「自働」という言葉よりも「自動」が使われる場合が圧倒的に多いですよね。自動車、自動運転等々 使う場面にもよりますが、私には「自動」より「自働」という言葉の方がしっくりきます。なぜならば、放っておいてもうごく機械、技術が人間を苦役から解放し、幸福をもたらすという技術信仰は危険だと考えるからです。例えばネット通販で買い物すると、個人の購入履歴から興味のありそうな商品をAIが推測し、勧めてきますよね。これに頼ることに慣れると、必然的に自分で考える力が衰えます。カーナビも同じです。機械を利用しているつもりが機械に利用されることにもなりかねません。

 

言葉について考える際に、現代語よりも昔の言葉の方が物事の本質を捉えていると思うことがあります。例えば、「理解」と「理会」があります。現代語では「理解」を使いますよね。戦前の文章を読んでいると、「理会」という表現によく出会います。国文学者の折口信夫も「理会」という言葉をよく使っていました。「理解」という言葉には、物事を分解して把握するという分析的なニュアンスがあります。対して「理会」には物事を統合して捉えるニュアンスを感じます。私には「理解」より「理会」という表現の方がしっくりきます。物事を分解してしまうと、全体像が見えにくくなると思います。

 

機械や技術文明を捨て去り、原始時代に戻ろうと言っているわけではありません。文明の発展は技術の進歩と共に歩みを進めてきました。利便性の恩恵を受けた現代人が、今更原始時代に戻ることはできないでしょう。ただ、技術の進歩を信仰の域にまで高めてしまうことは危険だと思うのです。技術を利用しつつも、場合によっては技術を離れて自らの頭で考えてみたり、技術に不具合がないかを考えて、随時改善を行う必要があると思います。

 

いかがでしたでしょうか。今回は長崎で見つけた「自働電話」を通して人間と機械、技術のあるべき関係について述べました。人間が機械を利用しているつもりが逆に人間が機械に利用される事態にならないようにしたいものです。機械や技術に頼り過ぎない生活、田舎の可能性はここにあると思いました。

 

最後に長崎市内の路地の写真をのせます。長崎市内には、坂や小さな路地が多く、入り組んだ街並みが魅力の一つですね。

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