田舎暮らし in 熊野

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あなたは「いる」派?「ある」派?〜中上健次の方言論を読み解く〜

私は世界と共にいる。

私は世界と共にある。

 

「いる」と「ある」

同じように思えますが、全く違う世界観を表しているように思えます。

 

私は世界と共にいる。

世界より先に自分がいて、自らの意思で世界の中に入っているようなイメージでしょうか。自己決定論的世界観であり、自他が分離しています。

 

私は世界と共にある。

自分より先に世界があって、そこに自らが含まれているというイメージでしょうか。自分の意思や努力の力ではどうすることもできない運命に人間は支配されているという運命論的世界観であり、自他の境界が曖昧です。

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熊野を代表する作家である中上健次は、『紀州弁』というエッセイで紀州弁を通して「いる」「ある」の世界観の違いを論じています。このエッセイによりますと、紀州弁には「いる」という動詞がないとのこと。紀州弁で「なんな、そこに、あったんか」を標準語にすると「なんだ、そこに、いたのか」となります。中上健次はこう述べています。

「(あるということ、それは)物と僕自身の、交感のようなものである。「いる」ことではなく、「ある」ことが、こころよい。標準語を使う標準人のように、「いる」ことを言いはじめると、この世界に、生きることに、臆病風吹かすことになる」

 

中上健次は「いる」派を標準語、「ある」派を紀州弁とみてエッセイを書きました。広げて考えると、「いる」派は西洋個人主義、「ある」派は日本古来の協調主義ともいえるのではないでしょうか。どちらが優れている、劣っているといった話ではありません。現代日本社会には両者が入り乱れ、混乱しているように思われます。時には「いる」派的意見、例えば、自我の確立が急務だ、もっと自分をしっかり持て、プリンシプルを持て、対立を恐れずに議論を戦わせよう等が言われています。「ある」派的な意見としては、自分のことよりまず相手のことを思いやりましょう、言われずとも相手の意見を汲めるような非言語コミュニケーションを育みましょう等々。冷静に双方の長所、短所を把握する必要があるかとおもいますが、私は日本人にとっては、やはり古来から続く「ある」派の考えが合うと思います。日本古来の美意識として「もののあはれ」がありますね。もののあるがままの動きに心を動かされること。散りゆく桜を見て、ただ、あぁ美しいと思う心です。ここでは自他の区別はなく、両者は融合しています。分析も解釈もありません。

 

いかがでしたでしょうか。中上健次の方言論をつてにして「いる」派と「ある」派の世界観の違いを述べてきました。「いる」派は自他分離の考え方、「ある」派は自他の区別が曖昧な考え方です。標準語と紀州弁の関係の拡大版として、西洋と日本の世界観の違いも述べました。