田舎暮らし in 熊野

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さようなら、経済成長至上主義

人はなぜ働くのでしょうか。生活の糧を得るためだ、働くこと自体が喜びだからだ、などの意見があるかと思います。おそらく前者の意見が多いでしょう。

 

ではなぜ生活するのか。生物としての生存そのものが目的なのでしょうか。そんなことはないでしょう。現代社会、特に日本のような先進国であれば、働かなくても生物としての生存は保障されています。

 

人が働く原動力としては、豊かな暮らしをしたい、人に認められたい、自己実現したい、などの欲求があるでしょう。つまり、現状に対する不足感です。この不足感こそが、人間を駆り立て、社会を進歩させてきたのではないでしょうか。同時に不幸をもたらしたとも言えるのではないでしょうか。旧約聖書の創世記、アダムとイブの神話もこのあたりのことを述べていると思われます。アダムとイブはエデンの園(楽園)で自然と共生しながら牧歌的に暮らしていました。禁じられた善悪の知識の木の実を食べたことでアダムとイブは楽園を追放され、苦難の人生が始まったという話です。

 

不足感とは何か、不足感と経済との関係、どの程度不足感を持つべきなのかという問題をトーマス・セドラチェク著、『善と悪の経済学』という本を通して考察してみます。

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本文を引用します。

「人間は、自然にしていることが不自然で、不自然でいることが自然な動物である。自然でないときに、人間はより自然でいられる。これは心理学的にも宗教的にも真実だが、とりわけ経済学的にそう言える」

衣服を例にあげます。アダムとイブの神話で人間が最初に所有したものは、衣服でした。衣服を着るのはなぜでしょうか。本質的には、防寒のためではなく、裸体を隠すという羞恥心からでしょう。つまり道徳観念からです。裸の方が生物本来の意味で自然ですよね。人間にとっては逆で、衣服を着るという不自然な状態が自然なわけです。再度引用します。

「この自然な不自然さ、この自然との不調和は、今日にいたるまで、経済学の中心にある。この緊張関係、内と外とのせめぎ合い、内なる不足感の表出、不足の埋め合わせの欲求が経済学の始まりだった」

ここで言われている不足感とは、生存するに足る食料がないというような物質的な話というよりも、精神的なものです。昔に比べて物質的にはるかに豊かになった現代人も、昔と変わらず、いや昔以上に不足感に苛まれているように思います。現在の経済成長至上主義はその現れでしょう。幸せに生きるためには、人間が根源的に持っている精神的な不足感と、そこから来る絶え間ない欲望の拡大にどこかで歯止めをかける必要があると思います。足るを知るということは、怠惰とは異なります。再度本文を引用します。

旧約聖書に「忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる」とあるのは、意味のないことではない。ジョン・ミルトンは、「内なる自分を治められる人、情念や欲望や恐怖を支配できる人は、王にまさる」と語っている」

 

いかがでしたでしょうか。自然との不調和から精神的な不足感が生まれ、その不足感から経済学が生まれたという話でした。そして、絶え間ない欲望の拡大にどこかで歯止めをかけて、自制心を持って生きることが幸せにつながるのではないかとの話でした。田舎暮らし、ミニマリスト的生き方の可能性の本質は、ここにあるのではないかと思っています。