田舎暮らし in 熊野

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人はなぜ熊野古道を歩くのか

「なぜ山に登るのか。そこに山があるからだ」

人口に膾炙する、イギリスの伝説的登山家、ジョージ・マロリーの言葉ですね。命を懸けて挑戦するロマンの対象として山がそこにあるから、登るのだ、という意味かと思います。

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熊野古道中辺路の大雲取越の写真です。

「人はなぜ熊野古道を歩くのか。いにしえの人々の信仰の面影を追うためだ」

私はそう思います。

熊野古道は命を懸けて挑戦する対象なのでしょうか。そんなことはないでしょう。確かに山道で疲れますが、断崖絶壁をよじ登る必要はないですし、マイナス何十度の極限状況の中を歩くわけではないです。著名な観光地めぐりの一環でしょうか。これもしっくりきません。熊野古道には絢爛豪華な建築物はありません。普通の山道に、時折歴史を感じさせる石畳やお地蔵様、石碑があるくらいのものです。

 

昔の人々は命を懸けて熊野巡礼に向かいました。現在とは違い、旅に出ることは死と隣り合わせでした。熊野は峻険な山々に囲まれた難所ですからなおさらです。力尽きて野垂れ死する、山賊に身ぐるみ剥がされる等々危険に満ちていました。なぜいにしえの人々は大きな危険を冒してまで熊野を訪れるたのか。救いを求める切実な信仰心を持っていたからだと思います。

 

翻って現代日本、命をかけて救いを求めるという宗教としての信仰心を持った人はかなり少ないと思います。これは文明が進むと宗教心が薄まり、世俗化するという意味ではありません。現代の最先進国アメリカ国民の90%以上が神を信じているそうです。現代日本人は狭義での宗教信仰は薄まっていますが、何かを信じることに対する漠とした憧れは残っているのではないでしょうか。この憧れが現代日本人を熊野古道に惹きつけていると思います。命を懸けた信仰心から、熊野巡礼に向かったいにしえの人々の夢の名残を求めて。

 

昨日、熊野古道中辺路の大雲取越を歩きました。歩道の入り口周辺に廃校がありました。時が止まっていました。8時49分 登校中の子供たちで賑わっていたであろう、ありし日の姿がまぶたの裏に浮かびました。ここにも夢の名残がありました。

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