田舎暮らし in 熊野

田舎暮らしの日常、旅行、グルメ、読書について書いています。

究極のさば、『関さば』を産地で堪能!

大間のまぐろ、氷見のぶりと並ぶブランド魚といえば、関さばですね。昨日、産地である大分県の佐賀関漁港の周辺で関さばの刺身を食しました。私は田舎の漁村に住み、漁業関係の仕事をしておりましたので、消費者として視点に加えて、業界関係者としての視点から関さばについてレポートします。

 

関さばは佐賀関漁港で揚がった天然のさばです。このさばは潮流が速く、プランクトンも豊富な豊後水道で漁獲されます。漁法は一本釣りで、活きたまま水揚げされます。出荷の際には、活け締め、神経締めが施され、最高の状態で出荷されます。計量方法も独特です。通常、計量器に魚を乗せて重量を測りますが、関さばは「面買い(つらがい)」で計量します。「面買い」とは、水中で泳いでいる魚を目視して、重量を判断する計量方法です。極力、魚を空気にさらさないことで、鮮度の低下を防いでいます。私は関さばを食べる前に佐賀関漁港で水揚げの様子も見学しました。確かに「面買い」していました。船の水槽から活きたさばを素早く水揚げし、すぐ近くの水槽に即、入れていました。さばは弱りやすい魚で、雑に扱うとすぐに死んでしまいます。関さばは非常に丁寧に扱われていることを実見しました。

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漁港のすぐ近くの食堂で関さばの刺身を頂きました。新鮮な関さばの刺身は、コリコリの食感です。ほのかに脂がのっています。青魚特有の魚臭さは全くありません。薬味はいらないと思いました。このさばでしたら、塩で食べてもいいでしょう。濃厚な旨み、ねっとりした食感が特徴の熟成魚が好みの方には物足りないかもしれませんが、個人的には青魚は新鮮なものが美味しいと思います。関さばの刺身、さざえの刺身にご飯、味噌汁、茶碗蒸し、小鉢がついて3000円ほどでした。

 

3000円は高いと思われる方もいらっしゃるでしょうが、私は特に高いとは思いませんでした。さば自体は珍しい魚ではありませんよね。それどころか日本で最も水揚げ量の多い魚です。どこのスーパーでも売っています。ただ、関さばはこれらの一般的に流通しているさばとは別物と考えてよいかと思います。スーパーなどで売っているさばは、関さばのような丁寧な扱いはされていません。当然、味も落ちます。関さばのような手間ひまをかけた魚が高くなるのは、当然といえるでしょう。

 

一般的に関さばの弱点は、天然魚ゆえの漁獲の不安定さと品質のばらつきといわれています。品質のばらつきとは、魚の個体差のことです。最高の漁場で、最高の扱いで出荷された魚といえども、食べているエサなどによって味にばらつきはでます。十人十色という言葉がありますが、十魚十色ともいえるのでしょう。それぞれの魚にはそれぞれの個性があります。私は天然魚ゆえの個体差は、弱点ではなく、むしろ魅力だと思っています。オンリーワンの魚との一期一会を大切にしたいと思います。

 

いかがでしたでしょうか。究極のさば、関さばは評判に違わず美味しいさばでした。漁師をはじめとした漁業関係者の多大な努力の賜物だと思います。生産者の皆様、ありがとうございます。

 

最後におまけです。別府温泉の源泉、『海地獄』です。100度近い熱泉が湧き出ています。今回、初めて大分県を訪れました。美味しい食べ物、温泉なども沢山あり、なかなか面白い場所でした。

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田舎で楽しむナイトサファリ!

田舎では夜の帳が下りると、野生動物が動き出します。

 

私は3年ほど前に名古屋から三重県南部に位置する熊野市に移住しました。熊野市は、前は雄大な太平洋、すぐ後ろには深い山々が連なっており、いわゆる田舎です。私は人口300人ほどの限界集落に暮らしています。田舎暮らしの魅力についてブログでも何回か紹介してきました。具体的には、人間関係が親密、新鮮な食材が手に入る、生活費が安い、自給自足能力が身につく、などです。今回はこれらとは違った視点で田舎暮らしの魅力をお伝えします。

 

それは野生動物に頻繁に出会えることです。しかもただです。夜の山道を車で走っていると、あらゆる野生動物に遭遇します。シカ、イノシシは当たり前です。他にもタヌキ、イタチ、アナグマハクビシンなどもいます。珍しい動物ですと、フクロウを見たこともあります。クマは見たことがありませんが、目撃情報があるのでどこかにいるのでしょう。

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こちらはミミズクです。このミミズクは野生ではなく、近所の方が飼っている個体です。野生のフクロウも見たことがありますので、野生にも生息しています。ミミズクとフクロウの違いは、頭に耳のような羽角がついているか否かです。ミミズクには羽角がついています。フクロウにはありません。少し違いますが、基本的には仲間です。夜になると、ホーホーと鳴きます。

 

私の一番好きな野生動物は、タヌキです。タヌキはぽっちゃりした体型で手足は短いです。ちょこちょこと歩く姿がなんとも可愛らしいです。

 

野生動物と接するにあたり、注意する点が二つあります。一つ目は餌付けしないことです。野生動物はかわいいだけではなく、人間に害も及ぼします。イノシシやクマは人間に襲いかかってくることもあります。シカやイノシシなどは人間が作っている農作物を食い荒らします。農業をされている方にとって、獣害は深刻な悩みです。本来、人間と野生動物の生息圏は異なります。野生動物に餌付けすると、人間の生息圏に入ってくるようになり、大きな問題を引き起こすことになります。野生動物を見かけたら、そっとしておきましょう。二つ目は車でひかないように注意しましょう。シカなどは車が来ても逃げないことが多々あります。夜中に山道を走る際には細心の注意が必要です。野生動物をひいてしまったという話はよく聞きます。動物は死に、車も壊れます。私も何回かひきかけました。

 

いかがでしたでしょうか。田舎暮らしの魅力の一つは、夜になると様々な野生動物と出会えることです。まさに田舎の夜はナイトサファリパークなのです。餌付けをしない、ひかないように注意して運転する、この二点には注意して頂ければと思います。なお、夜中に山中を歩くことはかなり危険を伴いますので、余程自信のある方以外はやめておいた方がいいでしょう。田舎に行く際には、夜の山道を車で走ってみてください。様々な野生動物たちと出会えることでしょう!

昔の日本人はどのように酒を飲んでいたのか?〜酒の民俗学〜

若者のアルコール離れが進んでいますね。健康志向の高まり、遊びの多様化、人と人が集まる機会の減少などが原因だと言われています。私の実感としても、お酒を飲まない若者(20代)は確実に増えていると思います。お酒を体質的に飲めない人はさておき、飲める人でもあえて飲まない人は多いと思います。

 

では、昔の日本人(中世以前)はどのようにお酒を飲んでいたのでしょうか。日本民俗学の父、柳田國男氏の『酒の飲みようの変遷』という論考に、そのあたりのことが書かれていましたので紹介します。

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まとめると4点あります。順に説明します。

①集まって飲む。

②飲む機会は限定されていた。

③一つの大きい盃で回し飲みする。

④徹底的に飲む。

 

①集まって飲む。

昔の日本人は、手酌で独りちびりちびりという飲み方ではなく、必ず集まって飲んでいたようです。共同の飲食をすることで、親交を深めていたようです。つまり、酒盛りは重要な社交の手段だったのです。酒は神に対する捧げ物でもありました。

 

②飲む機会は限定されていた。

昔の日本人は、毎日酒を飲むのではなく、一年のうちの限られた日だけ酒を飲んでいたようです。具体的にはハレの日です。正月、祭り、婚礼、旅立ち旅帰りの祝宴などです。 

 

③一つの大きい盃で回し飲みする。

昔の日本人は、各々が小さい盃で酒を飲むのではなく、一つの大きい盃で回し飲みしていたようです。酒盛りという言葉のモルはモラフという語の自動形で、一つの器の酒を他人と共にするという意味ではないか、と柳田國男は述べています。

 

④徹底的に飲む。

昔の日本人は、酒の味を楽しむというよりも、酔うために飲んでいたようです。高揚感や陶酔感を一緒に飲んでいる人々が共有することが大切だったようです。酔ってどんちゃん騒ぎしていたようです。中世の記録には、飲み過ぎによる失敗談の類が沢山残っています。失敗とはいっても咎められることはなく、主人側の歓待が成功した証のようにも捉えられていたようです。

 

昔の日本人の酒の飲み方、現代に受け継がれている部分もありますし、そうではない部分もありますよね。大きな盃で回し飲みする、一年のうちの限られた、ハレの日だけ酒を飲むという習慣は失われたと言ってもよいでしょう。酒盛り、飲み会で大騒ぎする習慣は現代にも根強く残っているように思われます。私はそれなりに海外にも行きましたが、海外で日本の酒場の喧騒のようなものにお目にかかったことはありません。日本人は基本的に普段は静かで大人しいですが、大勢で酒を飲み始めると大騒ぎする傾向が強いと思います。今でも。

 

柳田國男は徹底的に酒を飲む昔からの習慣と、酒が手に入り易くなった現代の社会が結びつくと、日常的な酒の濫用という弊害が起こるのではないかと警鐘を鳴らしています。酒飲みの私としても耳が痛い指摘です。人と人が集まり、共同で飲食することで親睦を深める、そんな日本人の酒の飲み方の原点を忘れずにいたいものです。

古代人の死生観とは? 〜黄泉比良坂を訪れて〜

出雲にはこの世とあの世の境界があると言われています。現在の島根県松江市東出雲町にあります、黄泉比良坂(よもつひらさか)です。古事記の中の黄泉の国の神話に記載があります。先日、島根を旅した際に訪れましたので紹介します。

 

まず、黄泉の国の神話について簡単に説明します。夫のイザナギと妻のイザナミは仲睦まじく暮らしていましたが、イザナミは出産の際に傷を負い、亡くなってしまいます。イザナギは最愛の妻、イザナミのことを忘れることができず、イザナミがいる黄泉の国(あの世)に向かいます。戸を挟んで、イザナギイザナミに、帰ってきて欲しい、とお願いします。イザナミは黄泉神(黄泉の国を治める神様)に相談するので、その間、自分のことを見ないように、イザナギに言いました。長い間、イザナギは待ちましたが、なかなか現れないので、待ち兼ねて、戸を開けてイザナミを見てしまいました。イザナミの身体には蛆がたかっていました。それを見たイザナギは逃げ出しました。恥をかかされ、激怒したイザナミイザナギを追います。イザナギは黄泉比良坂を通り、必死に逃げます。そして黄泉比良坂を巨大な石で塞ぎ、なんとか逃げ切りました。巨石によって、黄泉の国(あの世)と葦原中国(この世)の境界は閉じられた、という話です。

黄泉比良坂です。

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この世とあの世の境界を閉じたとされている巨石です。

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黄泉比良坂の途中にある、賽の神です。地元では、ここを通る際には、賽の神に小石を積む風習が今でも残っているようです。

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私が黄泉比良坂を訪れたのは休日でしたが、誰もいませんでした。恐る恐る、この世とあの世の境界を越え、黄泉の国に足を踏み入れました。日中にも関わらず、周辺は薄暗くじめじめしています。冷たい風が吹きすさび、森が騒いでいます。何ものかが私に来てはならない、と警告を発しているような気がし、途中で引き返しました。

 

古事記の黄泉の国の神話は、古代日本人の死生観を伝えているように思えます。古代日本人にとって生と死は断絶しておらず、どこかで繋がっていると考えられていたのではないでしょうか。黄泉の国(あの世)と葦原中国(この世)は別の世界ではあっても、黄泉比良坂のような通路で繋がっていると。

 

現代人の死生観は、基本的には生と死は断絶しています。これは科学主義の必然的な帰結だと思われます。死んだら終わり、と。私自身も典型的な現代人であり、そのように考えています。ただ、現代人は古代人より優れているだとか、古代人は愚かだったとは思いません。生は死を、死は生を含むものとして生死を循環的に捉えていた(と思われる)古代人の死生観、私には豊かな精神世界だと思われます。現代人は科学主義の名のもとで、目に見えないもの、科学で証明できないものを信じることが難しくなっています。その行き着く先が虚無主義なのでしょう。物質的には現代は古代よりはるかに豊かになりました。ただ、精神的には貧しくなっているのかもしれません。そう考えると、現代人が古代人から学ぶことも多くあるのかもしれませんね。

人工美の最高峰、足立美術館の日本庭園を訪問

 

先日、島根を旅しました。印象に残った二つのスポットを紹介します。一つ目は安来市足立美術館の日本庭園、二つ目は東出雲町の黄泉比良坂です。今回は足立美術館の日本庭園を紹介します。

 

足立美術館横山大観の絵を中心に、近代日本絵画を主に展示しています。足立美術館は絵画だけではなく、日本庭園でもとても有名です。アメリカの日本庭園専門誌で17年連続日本一に選ばれています。

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なんとも美しい日本庭園でした。剪定などの管理が行き届いており、非常に完成度の高い日本庭園に思われました。スケール、配置、色彩等も秀逸です。私は日本庭園の専門家ではありませんが、趣味で多くの日本庭園を訪れています。京都の龍安寺天龍寺詩仙堂桂離宮の庭園、金沢の兼六園、高松の栗林公園、鎌倉の瑞泉寺の庭園などです。そんな中でも、足立美術館の日本庭園は、日本庭園の最高峰の一つだと思いました。

 

しかし、です。何かが足りない気がしました。なんと言ったらいいのか難しいですが、人工的過ぎるような印象を持ちました。「すき」がないとも言いましょうか。ある種の「遊び」や「外し」の要素が感じられないのです。人間を例にとると、容姿端麗、頭脳明晰、性格も良く、スポーツ万能の人間のような感じです。(こんな人間はいないと思いますが)こういう人間は、憧れや畏怖の対象にはなっても、人を惹きつけることは難しいような気がします。完璧過ぎて近寄り難い、となるのではないでしょうか。足立美術館の日本庭園も完成度が高過ぎて、逆に違和感を感じさせてしまうのかもしれません。私はそう感じました。

 

私が一番好きな日本庭園は、鎌倉の瑞泉寺の庭園です。鎌倉時代の後期から室町時代にかけて活躍した名僧、夢窓疎石が作庭しました。夢窓疎石は作庭家としても大変有名な人物です。瑞泉寺の日本庭園は、日本庭園好きの間ではよく知られていますが、一般的にはそこまで有名ではなく、観光客もほとんどいません。この庭園の魅力は、自然と一体化していることだと思います。岩をくり抜いた洞窟の前に池、橋があります。手入れが徹底されている感じはありませんが、それが逆に自然さを感じさせます。人工美と自然美が調和しているように思います。

 

少し話が飛んでしまいました。足立美術館の日本庭園は、間違いなく日本庭園の最高峰の一つだと思います。庭園としてだけではなく、人工美の一つの極地だとも思いました。ただ、「すき」がなく完成度が高過ぎるため、私は逆に違和感を感じてしまいました。少し「すき」が欲しいところです。人間も、ちょっと「すき」のある人のほうがチャーミングですよね。

懐かしのチューペットは何処に

私は小さい頃、チューペットが大好物であった。

チューペットとは、アイスの一種である。細長い形状をしており、凍らせると真ん中でポキッと折ることができ、二つになる。砂糖水に色をつけて凍らした程度の簡素なアイスであり、高級品でもなければ、グルメを唸らす逸品でもない。でも、私はこのチューペットが好きで、しょっちゅう食べていたものだ。

 

先日、あるエッセイを読んでいたら、筆者が小さい頃に苦手だった食べ物について書かれていた。たくあんが大の苦手だったとのことである。戦中、戦後の貧しい時代だったこともあり、苦手な食べ物でも残すことは親に許されなかったようである。このエッセイを読み、自分の小さい頃に苦手だった食べ物について思い出そうとしたところ、なかなか思い浮かばない。私は小さい頃から、食べ物の好き嫌いはほとんどない。強いて言うなら、牛乳や生トマトはあまり得意ではなかったが、大嫌いとも言えない。出されたら食べるし、飲む。そんなわけで、小さい頃に苦手だった食べ物ではなく、好きだった食べ物について回想してみた。すると、チューペットの記憶が蘇ってきたのである。

 

なぜチューペットがそんなにも好きだったのだろうか。三つ程理由が考えられる。一つ目は味である。私は小さい頃から、甘い物はあまり食べない。アイスクリームのような甘ったるいお菓子より、チューペットのようなさっぱりした氷菓子を好んだのかもしれない。二つ目は、共食の体験である。チューペットは一つを二つに割ることができ、誰かと共に食べることができる。それが楽しかったのかもしれない。三つ目は、音である。カチカチに凍らしたチューペットを思いっきり膝に叩きつけると、ポキッという小気味のよい音を立てて、折れる。その音が好きだったのかもしれない。

 

最後にチューペットを食べたのはいつだったのだろうか。思い出せない。おそらく小学生の時が最後だろう。ということは30年くらい前である。そして、私はチューペットのことを30年近く、思い出しもしなかったのである。チューペットに対して、申し訳ない気がしないでもない。こんなふうにして、大好きだったもの、こと、そして人々についても、時間の経過とともに忘れ去ってゆくのだろうか。そう思うと、どこか寂しい気になる。

 

まだチューペットは売っているのだろうか。久しぶりに食べてみたい、探してみよう。

台所の思想史 〜ナチスの台所〜

「私がこの世で一番好きな場所は台所だと思う」

吉本ばななさんの小説『キッチン』の冒頭の文章です。私はこの本が大好きで何度も読み返しました。とても温かい気持ちになれる本です。台所というと日常生活、家庭などを思い浮かべますよね。対して、ナチスと言えば異常性や悪の象徴と考えられており、台所とはなかなか結びつかないでしょう。しかし、当然ながらナチスドイツにも台所はありました。ナチスドイツの台所はどのようなものだったのか、より具体的にはどのような思想的背景に支えられた台所だったのかを考えてみます。今回は京都大学の准教授で農業思想史を主に研究している藤原辰史氏の著書『ナチスのキッチン「食べること」の環境史』を参考にします。

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この本は第一次世界大戦後のワイマール共和国からナチスまでのドイツの台所をめぐる思想史についての考察をしています。ナチスについて、政治、経済、軍事、歴史、または精神病理学などの観点から語られることは多いですが、台所の思想史という切り口は珍しく、興味を持ちました。

 

著者はナチスの台所思想は、テイラー主義に基づいていると述べています。テイラー主義とは、科学的見地に基づいた労働管理の理論です。具体的には、労働の各要素を分解し、数値化して観察し、無駄な作業をあぶり出し、生産性の向上を図るといった理論です。現代の企業経営、特に製造業の生産管理などにおいても用いられています。テイラー主義では、暗黙知や口頭伝承のような属人的な仕事を否定します。つまりは職人気質は認めないということです。仕事をマニュアル化し、いつでも誰でもできるようなルーティンワークにすることを目指します。ある意味では、人間を機械のように扱う、機械主義に通じる考え方です。

 

ではナチステイラー主義的な台所とはどのようなものだったのでしょうか。一つ目は台所の「工場化」です。機能的で効率的な台所の配置、最新の調理器具の採用などです。無駄を排して、機械のように台所仕事をすることが良しとされていました。二つ目は栄養至上主義です。美味しさや愉しさのような計測不可能な感情はかき消され、健康に良い食べ物、ビタミンが多い食べ物、最終的には頑強な兵士を育成する食べ物が推奨されました。

 

ナチスの台所思想は現代にも受け継がれているような気がします。機能的なキッチン、栄養至上主義などなど。私はこれらを完全否定はしません。料理の手間が減れば便利ですし、栄養ももちろん大切です。ただ、どこかに違和感を感じます。台所の「工場化」を突き詰めたら、料理は各家庭ではなく、どこかの大きな食品工場で作って、各家庭に配分するのが最も効率的という話になります。栄養至上主義を突き詰めたら、サプリだけで栄養補給すれば良いことになります。料理は画一的な工業製品とは違うと思います。各地域、各家庭には、郷土料理なり家庭料理があります。これらは主に口承などを通じて受け継がれてきた文化であり、これらの文化の多様性を守っていきたいと思います。あと、食べ物は単なる栄養源ではありません。食材を調達し、料理し、共食する、それらのプロセス全てを含んだ、全体的な食の体験も重要だと思います。

 

ナチスの台所思想とは、テイラー主義に基づいて、効率最優先で人間を機械のように扱い、工業製品のように画一的な料理を作り出そうという思想です。この思想は食と人間の多様性、全体性を破壊しかねず、問題があると思われます。最後に吉本ばななさんの小説『キッチン』の文章を再度引用します。

 

「どこのでも、どんなのでも、それが台所であれば食事をつくる場所であれば私はつらくない。できれば機能的でよく使いこんであるといいと思う。乾いた清潔なふきんが何まいもあって白いタイルがぴかぴか輝く。ものすごいきたない台所だって、たまらなく好きだ。床に野菜くずがちらかっていて、スリッパの裏がまっ黒になるくらい汚いそこは、異様に広いといい。ひと冬軽くこせるような食料が並ぶ巨大な冷蔵庫がそびえ立ち、その銀の扉にわたしはもたれかかる。油が飛び散ったガス台や、さびのついた包丁からふと目をあげると、窓の外には淋しく星が光る」