田舎暮らし in 熊野

田舎暮らしの日常、旅行、グルメ、読書について書いています。

ヨーロッパ人は森がお嫌い?

湿った土や木々の香り、小鳥のさえずり、などなど森を歩くと清々しい気持ちになりますよね。私は本格的な登山はしませんが、近くの熊野古道をよく歩きます。今回は森を例にとって、ヨーロッパ人の自然観の変遷とその背景について考えてみます。

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ヨーロッパでは環境保護を訴えるデモが頻繁に起こりますよね。自然愛好家や環境保護活動家は、日本などと比べるとかなり多いと思います。最近ですと、スウェーデンの少女、グレタ・トゥンベリさんが有名ですね。EUとしても環境保護に力を入れています。では、ヨーロッパ人は昔から自然愛好家だったのでしょうか。そうではないと思われます。

 

英字新聞を読んでいると、コロナ絡みで最近、このような表現をよく目にします。下記は昨日のウォールストリートジャーナルの記事の見出しです。

"JPMorgan,Citygroup Signal That Economy Isn't Out of The Woods."

訳すとこうなります。

JPモルガンシティグループは、経済はまだ危機を脱していないとのシグナルを発した。

つまり、森は危険、危機の象徴として使用されています。このような表現が英語に残っているということは、かつてのヨーロッパ人にとって、森は恐怖の対象だったことを意味していると思われます。自然を愛する現代ヨーロッパ人の自然観とは真逆です。

 

グリム童話の『赤ずきんちゃん』の話においても、森は恐ろしい場所だとされていますね。赤ずきんちゃんは森の中で狼に食べられてしまいます。

 

ではなぜヨーロッパ人の自然観は、恐怖の対象から愛好の対象へと逆転したのでしょうか。この問いを解明するには、ヨーロッパの宗教的背景を理解する必要もあり、容易ではないのですが、概ねこのように言えるかと思います。かつて森を恐れ、敵対視し、破壊してきたヨーロッパ人は、悔恨の念から、贖罪の意識から、逆に森を大切にするようになったのではないかと。

 

私は現代ヨーロッパ人の自然愛好家を偽善者であると批判しているわけではありません。過去に対する反省によって、自然を大切にするようになった(と思われる)こと自体は、良いことだと思います。ただそのことは、ヨーロッパ人が本来的に、歴史的に自然愛好家だったということを必ずしも意味しないと思います。現象面だけを見るのではなく、歴史的、心理的背景も理解する必要があると思っています。

 

日本人はどうでしょうか。日本人にとっての森は、恐怖の対象という側面もあったでしょうが、基本的には信仰、敬愛の対象でした。つまりは、森と敵対してきたのではなく、基本的には共生してきたと言えます。このことが逆に、現在の日本において森林保護活動が活発にならない原因になっているという側面もあるかと思います。ヨーロッパの逆ですね。もともと森と共生してきたのだから、いまさら意識的に保護しようとはならないのかもしれません。贖罪意識を持ち難いとも言えます。

 

いかがでしたでしょうか。現在のヨーロッパ人には自然愛好家や環境保護活動家がとても多いですよね。ただ、歴史を遡ると、ヨーロッパ人には自然に対する恐怖、敵対心があり、自然を破壊してきたという側面があります。そのことに対する贖罪意識から、現在のヨーロッパ人は逆に自然愛好家になったのではないかという話でした。

平家の落人伝説はいかにして作られたのか? 〜祖谷の平家落人伝説〜

昨日、平家の落人伝説で有名な徳島県祖谷渓のかずら橋を訪れました。かずら橋は木のつるで出来た橋です。歩道には割と大きな隙間があり、下を流れる激流が見えてスリル満点でした。

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かずら橋のすぐ近くに「琵琶の滝」があります。琵琶の滝の名前の由来が興味深かったので紹介します。滝のすぐ横に立っていた案内板の写真です。

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要約します。源平の戦いに敗れた平家の一門は、安徳天皇を奉じ、この地に潜入し土着化したと伝わっており、その落人たちは、昔日の都の華やかな暮らしをしのびながら、この滝の下で琵琶の音を奏でながら、零落した身上を慰め合ったという伝説が残っているとのことです。

 

なんとも哀しい話ですよね。文学的観点から見ると、この話の魅力は劇的なコントラストにあると思われます。都で栄華を極めた、平家が戦いに敗れ、山深い秘境の地で生き延びたというコントラスト、戦乱をなんとか潜り抜けた武士たちが、琵琶の音を奏でてこの世の哀しみを慰め合ったというコントラスト。平家物語の一章『卒塔婆流し』を思い出しました。『卒塔婆流し』は平清盛打倒を謀った、平康頼らの陰謀が、清盛に察知され、絶海の孤島である鬼界ヶ島に流された時の話です。康頼は帰京を願い、千本の卒塔婆(お墓に立てられている木札)に望郷の想いを綴り、海に流したという話です。

 

琵琶の滝の伝説や卒塔婆流しの話が史実に基づくものなのかどうかは分かりません。私としては史実かどうかよりも、これらの物語を紡ぎ出し、語り継いできた、いにしえの人々の心象風景に興味があります。では具体的にどのような心象風景だったのでしょうか。これらの物語を紡ぎ出し、語り継いできた人々は、栄華を極めた身から零落した、平家の人々に対して心を寄せ、できればどこかで生き延びていて欲しいと願っていたのではないでしょうか。私はそう思います。

 

平家の落人伝説はいかにして作られたのか?栄光の地位から落魄した、平家に対して心を寄せた、いにしえの人々の心象風景が作り上げた物語だと思います。

 

もしかしてですが、祖谷に落ち延びた平家の落人たちは、哀れな余生を送ったわけではないのかもしれません。戦乱や権力争いから離れ、山深い祖谷の地で静かに暮らし、心は穏やかだったのかもしれません。琵琶の音を奏でて零落した身を慰め合ったのではなく、深い山々に抱かれながら、滝の下で琵琶の音を奏でる風流を楽しんでいたのかも。そんな物語も有り得たし、また有り得るのかもしれません。

天空の郷・果無集落で「何も無いこと」の意味を考えてみた。

先日、奈良県十津川村を車で走っていたら、果無集落の道標を見つけました。聞いたことのない名前でしたが、ロマンチックな名前に惹かれて、訪問しました。果無、果てが無い、つまりは終わりが無い、無限、永遠みたいな意味でしょう。

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狭い山道を3kmくらい登っていくとたどり着きました。見渡す限り山々が広がっていました。とても美しい集落です。山の上にあるので、涼しいです。風もよく通ります。

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集落といってもぽつんぽつんと数軒の家があるだけです。

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滝もありました。そこまで大きな滝ではないですが、水量がすごいです。

 

果無の名前の由来が気になります。果てし無く山々が広がっているという意味なのでしょうか。詳しくは分かりません。個人的には、想像力の源泉が果てし無くあふれる土地、という意味なのではないかと想像します。

 

果無集落には自然を除いてほとんど何もありません。何もないと、人間のある種の感性が研ぎ澄まされ、想像力が高まるのかもしれません。

 

夜は漆黒の闇に包まれ、満天の星々がさぞかし美しいことでしょう。星空を眺めながら、遥か彼方の星たちについて想いを馳せます。人間が見ている星の光は、実は過去の光に過ぎないのです。1万光年離れている星であれば、人間が見ている星の光は1万年前の光です。ということは、その星はもはや宇宙に存在しないのかもしれません。果無集落に暮らしていたら、そんなことを想像するのかもしれません。

 

あるいは野生動物について。果無には、様々な野生動物が生息していることでしょう。鹿、猪、熊、猿、イタチなどなど。夜になれば、悲しそうな鹿の鳴き声を聞く機会も多々あるでしょう。何か悲しいことがあったのかな、親を亡くした小鹿が泣いているのかな、などと想像するのかもしれません。

 

果無には何も無い、だけど何でも有る、といった逆説が成立するのかもしれませんね。人間は何もなければ、想像の世界をふくらませます。果てし無い想像の世界が、そこに存在するのかもしれないです。対して都会生活においては、あらゆる欲望は可視化、具象化されていますね。グルメ、買い物、映画、巨大な人々の流れ、めくるめく夜の世界などなど。こういう世界に生きていると、人間は自らの内面を深く見つめたり、想像力を働かす機会が減るのかもしれません。その意味では、都会には何でも有る、だけど何も無い、という逆説もまた成り立ち得るのかもしれないですね。

 

いかがでしたでしょうか。果無集落を訪問し、「何も無い」ことの意味について考えてみました。果無には何も無いけれども、何でも有るという逆説が成立するのかもしれません。人間は何も無ければ、想像の力によって、豊かな精神世界を築くことができるのかもしれないですね。

奈良県十津川村の温泉プールを訪問したら、まさかの展開に!

昨日、奈良県十津川村にある温泉プールに行きました。温水プールではなく、温泉プールです。温泉プールは珍しいですよね。十津川温泉は源泉掛け流しの本格的な温泉ですので、期待に胸を膨らませて向かいました。プールに入ると、なんと冷たいではありませんか!水質も温泉のそれではなく、普通の水道水のようです。いぶかりながらも、誰もいないプールを1kmくらい泳いだ後にシャワーを浴びて帰ることにしました。すると、シャワー室にこのような文言の貼り紙がありました。(一字一句変えず、そのまま引用します)

 

お客様へ

平素は、温泉プールをご利用頂き、誠にありがとうございます。

シャワーには「温泉」を使用しております。

 

ええぇぇ!シャワーだけが温泉かい!プールは温泉じゃないのかよ!とツッコミを入れたくなりました。まあ暑い日だったので、冷たい方が気持ちよかったのだと自らに言い聞かせて、温泉プール(正確には温泉シャワー)を後にしました。

 

帰り道に偶然、温泉シャワーの近くで素晴らしい秘境を見つけました。そこは果無集落です。天空の郷と呼ばれているようです。また次回のブログで紹介します。

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テスラ的「生き方」とは? 〜イーロン・マスクの伝記を読んで〜

テスラはアメリカの電気自動車メーカーです。最近、トヨタを抜いて時価総額で世界一の自動車メーカーになりました。販売台数ではトヨタの30分の1程度しかないにも関わらずです。しかも利益をほとんど出していません。将来に対する投資家の期待値が高いということでしょう。イーロン・マスクはテスラの創業者(正確には共同創業者)、CEOです。破天荒な人物としても有名ですね。最近、ロックダウン命令を破って、逮捕される覚悟で工場を再開させました。人類の火星移住や人間の脳をコンピュータに接続する技術の開発などを進めています。

 

今回はアメリカのジャーナリスト、アシュリー・バンズの著書『イーロン・マスク 未来を創る男』を通して、テスラ人気の理由を探っていきます。 

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テスラが人気を集めている理由、それはテスラ的「生き方」にあると思われます。テスラ的「生き方」とはイーロン・マスクの生き方と同義です。テスラ的「生き方」とは、ある種のクールな生き方といえるのでしょう。壮大なビジョン、未来志向、環境意識が高い等々。テスラの車を買う人々は、単に車を買っているのではないのだと思われます。テスラの車に乗っていると、自分自身がクールな人間になったような気になるということでしょう。  

 

テスラ的「生き方」をもう少し掘り下げて考えてみると、3つのキーワードが浮かび上がります。一つ目は壮大なビジョン、二つ目は強烈な実行力、三つ目は全体性の追求です。順に説明します。

 

①壮大なビジョン

電気自動車を本格的に普及させることで、二酸化炭素の排出量を削減し、地球を救うというビジョンです。他の大手自動車メーカーも電気自動車の開発、販売を急いでいますが、テスラのような強烈なメッセージ性は感じさせません。「電気自動車の波に乗り遅れたら、経営が揺らぐかもしれないから、急いで電動化を進めよう」みたいな守りの姿勢が濃厚に感じられます。テスラの場合は、自動車電動化の波そのものを自ら創り出したことから来る、ビジョンの強さを感じます。

 

②強烈な実行力

イーロン・マスクは壮大なビジョンを掲げるだけではなく、実行に移してきました。テスラは時価総額で世界一の自動車メーカーになりましたし、電気自動車の販売台数でも世界一です。テスラに対しては懐疑的な意見も多いです。私は毎日、アメリカの経済紙、ウォールストリートジャーナルを読んでいます。ウォールストリートジャーナルはテスラに対してかなり懐疑的な立場です(最近、テスラに対して批判的な記事は減りました)テスラは何度も経営危機を経験してきました。一時期、イーロン・マスクはテスラ売却を真剣に検討していたようです。本書によりますと、イーロン・マスクはグーグル創業者の1人のラリー・ページに、「最悪の事態になったらテスラを買収して欲しい」と頼んでいたそうです。なんとか危機を乗り越え、テスラがグーグルに買収されることはありませんでした。

 

③全体性の追求

テスラは部品や研究開発などをできるだけ内製化する方針のようです。大手の自動車メーカーは、エンジンのような基幹品以外は、外注することが多いですね。ビジネス用語でいうところの水平分業モデルです。対して、テスラは内製化を進めることで、製品に対する自社のコントロールを強め、ユーザーの要望に的確且つ迅速に対応できるようにしているようです。

 

いかがでしたでしょうか。テスラ的「生き方」とは、壮大なビジョンを掲げ、逆風にめげずに強烈な意志で実行に移すという「生き方」です。具体的なビジネス手法としては、内製化を進めることで、自社のコントロールを強め、ユーザーの要望に的確且つ迅速に応えるといったものです。テスラ的「生き方」は、アメリカ人の理想とする「生き方」なのでしょう。開拓者精神ともいえましょう。理想を掲げ、未知の大地を不屈の意志で切り拓き、自らの力で未来を創る精神です。開拓者精神は良いところばかりではありません。独善的になりがちですし、周囲との軋轢、対立も出てきます。日本人が理想とする、「和をもって尊しとなす」という「生き方」とは相入れない部分もあるでしょう。ただ、私としては、開拓者精神と和の精神を対立的に捉えたくはありません。二者択一ではなく、補い合う関係でありたいです。日本人は周囲との軋轢を恐れて、自己主張を控えがちです。これは美徳でもありますが、場合によっては物事を停滞させる原因にもなります。一般的な日本人は、周囲と調和する能力は既に高いと思われます。ですので、自分とは違う考えを持つ人、具体的にはイーロン・マスクのような開拓者精神を持った人から意識的に学ぶ必要があるような気がします。

知られざる熊野の聖地『宮井戸遺跡』とは?

熊野にはこの世とあの世の境があるといわれています。そこは宮井戸遺跡です。ほとんど知られていない場所です。

 

熊野といえば熊野古道熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社などが有名ですよね。他にも那智の滝や日本最古の神社と伝えられている花窟神社なども人口に膾炙しています。宮井戸遺跡は一般的にはほとんど知られていない場所です。地元の方にもほとんど知られていません。熊野に住んでいる私も最近まで知りませんでした。熊野郷土史家の方に教えて頂きました。大変神秘的な場所なので、是非一度訪れてみるべきだ、と言われて先日訪問しました。

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宮井戸遺跡は和歌山県新宮市に位置する、熊野川河口にひっそりとたたずんでいます。小さな森のようになっています。一周するのに1分もかからない小さな森です。私以外、誰もいませんでした。中には大きめの岩がいくつもあります。この場所には古代から神社があったようで、黄泉道守命大神を祀っています。

 

少し拍子抜けしました。荘厳な建築物があるわけでもなく、見るものを圧倒するような自然物があるわけでもありません。ある意味でどこにでもありそうな小さな森なのです。郷土史家の方がおっしゃっていた神秘的な場所であるとは、どういう意味なのだろうかと。そこで、近くにある新宮市郷土資料館に行って、宮井戸遺跡について調べてみました。館員の方にいろいろと教えて頂きました。

 

宮井戸遺跡はかつて水葬を行う場所だったそうです。水葬とは遺体を水に流す葬送の一種です。今ではほとんどの人は亡くなったら火葬されますよね。江戸時代までは土葬が主流でした。古代においては、風葬なども行われていました。話を戻します。宮井戸遺跡は亡くなった方をあの世に送る場所だったのですね。つまり、この世とあの世の境だったのでしょう。生の世界と死の世界をつなぐ場所ともいえるでしょう。ある種の「結界」だったのかもしれません。宮井戸遺跡にある神社の祭神は、黄泉道守命大神です。つまり、亡くなった方を死者の世界まで道案内をする神様ということでしょう。

 

熊野は神話の時代から根の国と呼ばれ、黄泉の国、つまりは死者の世界につながる土地とされてきました。つまりはこの世とあの世をつなぐ場所だと。熊野では江戸時代まで補陀落渡海という水葬が行われていました。宮井戸遺跡はそんな熊野を象徴する場所といえるのでしょう。

 

生の世界と死の世界をつなぐ場所。恐ろしい場所のようにも思えます。これはおそらく現代的死生観による一解釈に過ぎないのかもしれません。古代人は生と死は断絶しておらず、生のすぐ近くに死があると考えていたのかもしれません。コインの裏表のように。宮井戸遺跡はどこにでもあるような日常の風景の中にとけこんでいます。何気ない日常の中に死の世界が潜んでいるのかも。恐ろしいような、引き込まれるような、生命の深淵を垣間見たような気がしました。突如、強い風が起こり、木々を揺らしながら、河口に流れてゆきました。

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香港の歴史 〜東洋と西洋の間を揺れ動いて〜

香港といえば、摩天楼の夜景、繁華街の賑わい、トラムなどの様々な交通機関、グルメなどを思い浮かべますよね。私は2回、香港に行ったことがあります。バケツの水をひっくり返したような賑わいにとても惹かれました。個人的にはスターフェリーから眺める香港島の夜景が大好きです。下の写真は3年ほど前に香港を訪れた際、ヴィクトリアピークから自分で撮ったものです。

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今、香港が大きく揺れています。「逃亡犯条例」改正案に端を発した、香港市民による大規模反対デモは記憶に新しいですね。最近では「香港国家安全維持法」が施行され、反政府活動を行なっている若者などの逮捕が相次いでいます。強権的な中国共産党に対する国際的な批判も高まっています。リベラル、保守を問わず、メディアの論調では自由と繁栄を謳歌する香港が、抑圧的な中国に飲み込まれることを危惧していますね。私も同じ意見ですが、緊迫する香港情勢を深く理解するためには、香港の歴史を学ぶ必要があると思い、『香港の歴史 東洋と西洋の間に立つ人々』という本を読みました。著者は香港大学文学部教授のジョン・M・キャロル氏です。香港といえば、イギリスの統治下で発展した都市であるところから、西洋的な都市であるとのイメージが強いのではないでしょうか。この本を読むと必ずしもそうではないことが分かります。西洋と東洋の間で揺れ動いてきた、複雑な香港の歴史が浮かび上がってきました。

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言うまでもなく、香港は約150年間、イギリスの植民地として発展した都市です。(第二次世界大戦中の一時期は日本の統治下にありました)そして、1997年に中国に返還されました。東西の間で揺れ動いてきた香港の歴史を象徴する事件を本書の中から三つ挙げます。

 

辛亥革命の拠点としての香港

1911年に起こった辛亥革命により、清朝は倒れ、中華民国が建国されました。辛亥革命において香港は重要な役割を果たしたと言われています。革命を主導した孫文は香港で教育を受けており、香港を中国ナショナリズム運動の一大拠点としていました。やがて華人の革命派の一部は、中国から満州人(清朝を築いた民族)が追い出された後は、香港からイギリス人が追い出される番だと考え、反英運動を始めました。路上でヨーロッパ人が襲撃される事件などが起こりました。反英勢力と、反英運動に反対する華人勢力、イギリス植民地政庁との間で厳しい対立が発生しました。

 

戦間期における反英ストライキ、ボイコット

1925年に広州で外国人部隊が50人以上の中国人デモ参加者を射殺する事件が発生したことに端を発して、1925年から1926年にかけて香港で華人による大規模な反英ストライキ、ボイコットが発生しました。虐殺事件から二週間の間に5万人以上の華人が抗議のために香港を離れ、食料価格は高騰し、銀行では取り付け騒ぎが起こりました。香港経済は停止寸前の大混乱に陥りました。今回もストライキを支持する華人と支持しない華人に分かれました。

 

③戦後の六七暴動

中国の文化大革命の影響を受けた、香港の急進左派勢力が1967年に香港で大規模な暴動を起こしました。暴徒は反帝国主義を掲げ、警察を襲撃したり、車両に放火したりしました。警察側も応戦し、死者51名、負傷者800名、逮捕者は5000人を越える大惨事となりました。初期段階においては、左派勢力は香港市民から一定の支持を集めていましたが、過激化するにつれて、民衆の支持を失うことになりました。六七暴動によって、中華人民共和国とイギリス統治下の香港との間で選択を迫られた香港人は、大多数がイギリス植民地政庁の方を自らの政府とみなすことになりました。

 

本書を読んで、香港では大規模デモやストライキ、騒乱が歴史的に頻繁に起こっていることを知りました。昨年の大規模デモが初めてではないのですね。現在の香港は基本的に親西洋、反中国の流れですが、逆に振れる可能性もあるのかもしれません。10年後の香港は完全に中国に飲み込まれているのかもしれません。個人的にはそうあって欲しくないですが。歴史的に見ると、香港は親西洋、親中国の間を揺れ動いてきたということでしょう。

 

明治以降の日本も似ているような気がします。西洋化を成し遂げ、列強の仲間入りを果たした「西洋的」国家としての日本、アジアの国としての日本、この二つのアイデンティティの間で揺れ動いてきたのだと思います。このあたりの葛藤は、夏目漱石森鴎外の小説で頻繁に描かれています。欧化主義、国粋主義アジア主義アメリカニズムなどの間を揺れ動いてきました。香港も日本もこれからも東洋と西洋の間で揺れ続けるのでしょう。