田舎暮らし in 熊野

田舎暮らしの日常、旅行、グルメ、読書について書いています。

昔の日本人はどのように酒を飲んでいたのか?〜酒の民俗学〜

若者のアルコール離れが進んでいますね。健康志向の高まり、遊びの多様化、人と人が集まる機会の減少などが原因だと言われています。私の実感としても、お酒を飲まない若者(20代)は確実に増えていると思います。お酒を体質的に飲めない人はさておき、飲める人でもあえて飲まない人は多いと思います。

 

では、昔の日本人(中世以前)はどのようにお酒を飲んでいたのでしょうか。日本民俗学の父、柳田國男氏の『酒の飲みようの変遷』という論考に、そのあたりのことが書かれていましたので紹介します。

f:id:kumanonchu:20201108122415j:image

まとめると4点あります。順に説明します。

①集まって飲む。

②飲む機会は限定されていた。

③一つの大きい盃で回し飲みする。

④徹底的に飲む。

 

①集まって飲む。

昔の日本人は、手酌で独りちびりちびりという飲み方ではなく、必ず集まって飲んでいたようです。共同の飲食をすることで、親交を深めていたようです。つまり、酒盛りは重要な社交の手段だったのです。酒は神に対する捧げ物でもありました。

 

②飲む機会は限定されていた。

昔の日本人は、毎日酒を飲むのではなく、一年のうちの限られた日だけ酒を飲んでいたようです。具体的にはハレの日です。正月、祭り、婚礼、旅立ち旅帰りの祝宴などです。 

 

③一つの大きい盃で回し飲みする。

昔の日本人は、各々が小さい盃で酒を飲むのではなく、一つの大きい盃で回し飲みしていたようです。酒盛りという言葉のモルはモラフという語の自動形で、一つの器の酒を他人と共にするという意味ではないか、と柳田國男は述べています。

 

④徹底的に飲む。

昔の日本人は、酒の味を楽しむというよりも、酔うために飲んでいたようです。高揚感や陶酔感を一緒に飲んでいる人々が共有することが大切だったようです。酔ってどんちゃん騒ぎしていたようです。中世の記録には、飲み過ぎによる失敗談の類が沢山残っています。失敗とはいっても咎められることはなく、主人側の歓待が成功した証のようにも捉えられていたようです。

 

昔の日本人の酒の飲み方、現代に受け継がれている部分もありますし、そうではない部分もありますよね。大きな盃で回し飲みする、一年のうちの限られた、ハレの日だけ酒を飲むという習慣は失われたと言ってもよいでしょう。酒盛り、飲み会で大騒ぎする習慣は現代にも根強く残っているように思われます。私はそれなりに海外にも行きましたが、海外で日本の酒場の喧騒のようなものにお目にかかったことはありません。日本人は基本的に普段は静かで大人しいですが、大勢で酒を飲み始めると大騒ぎする傾向が強いと思います。今でも。

 

柳田國男は徹底的に酒を飲む昔からの習慣と、酒が手に入り易くなった現代の社会が結びつくと、日常的な酒の濫用という弊害が起こるのではないかと警鐘を鳴らしています。酒飲みの私としても耳が痛い指摘です。人と人が集まり、共同で飲食することで親睦を深める、そんな日本人の酒の飲み方の原点を忘れずにいたいものです。

古代人の死生観とは? 〜黄泉比良坂を訪れて〜

出雲にはこの世とあの世の境界があると言われています。現在の島根県松江市東出雲町にあります、黄泉比良坂(よもつひらさか)です。古事記の中の黄泉の国の神話に記載があります。先日、島根を旅した際に訪れましたので紹介します。

 

まず、黄泉の国の神話について簡単に説明します。夫のイザナギと妻のイザナミは仲睦まじく暮らしていましたが、イザナミは出産の際に傷を負い、亡くなってしまいます。イザナギは最愛の妻、イザナミのことを忘れることができず、イザナミがいる黄泉の国(あの世)に向かいます。戸を挟んで、イザナギイザナミに、帰ってきて欲しい、とお願いします。イザナミは黄泉神(黄泉の国を治める神様)に相談するので、その間、自分のことを見ないように、イザナギに言いました。長い間、イザナギは待ちましたが、なかなか現れないので、待ち兼ねて、戸を開けてイザナミを見てしまいました。イザナミの身体には蛆がたかっていました。それを見たイザナギは逃げ出しました。恥をかかされ、激怒したイザナミイザナギを追います。イザナギは黄泉比良坂を通り、必死に逃げます。そして黄泉比良坂を巨大な石で塞ぎ、なんとか逃げ切りました。巨石によって、黄泉の国(あの世)と葦原中国(この世)の境界は閉じられた、という話です。

黄泉比良坂です。

f:id:kumanonchu:20201106142336j:image

f:id:kumanonchu:20201106142342j:image

この世とあの世の境界を閉じたとされている巨石です。

f:id:kumanonchu:20201106142505j:image

黄泉比良坂の途中にある、賽の神です。地元では、ここを通る際には、賽の神に小石を積む風習が今でも残っているようです。

f:id:kumanonchu:20201106142942j:image

私が黄泉比良坂を訪れたのは休日でしたが、誰もいませんでした。恐る恐る、この世とあの世の境界を越え、黄泉の国に足を踏み入れました。日中にも関わらず、周辺は薄暗くじめじめしています。冷たい風が吹きすさび、森が騒いでいます。何ものかが私に来てはならない、と警告を発しているような気がし、途中で引き返しました。

 

古事記の黄泉の国の神話は、古代日本人の死生観を伝えているように思えます。古代日本人にとって生と死は断絶しておらず、どこかで繋がっていると考えられていたのではないでしょうか。黄泉の国(あの世)と葦原中国(この世)は別の世界ではあっても、黄泉比良坂のような通路で繋がっていると。

 

現代人の死生観は、基本的には生と死は断絶しています。これは科学主義の必然的な帰結だと思われます。死んだら終わり、と。私自身も典型的な現代人であり、そのように考えています。ただ、現代人は古代人より優れているだとか、古代人は愚かだったとは思いません。生は死を、死は生を含むものとして生死を循環的に捉えていた(と思われる)古代人の死生観、私には豊かな精神世界だと思われます。現代人は科学主義の名のもとで、目に見えないもの、科学で証明できないものを信じることが難しくなっています。その行き着く先が虚無主義なのでしょう。物質的には現代は古代よりはるかに豊かになりました。ただ、精神的には貧しくなっているのかもしれません。そう考えると、現代人が古代人から学ぶことも多くあるのかもしれませんね。

人工美の最高峰、足立美術館の日本庭園を訪問

 

先日、島根を旅しました。印象に残った二つのスポットを紹介します。一つ目は安来市足立美術館の日本庭園、二つ目は東出雲町の黄泉比良坂です。今回は足立美術館の日本庭園を紹介します。

 

足立美術館横山大観の絵を中心に、近代日本絵画を主に展示しています。足立美術館は絵画だけではなく、日本庭園でもとても有名です。アメリカの日本庭園専門誌で17年連続日本一に選ばれています。

f:id:kumanonchu:20201105132855j:image

なんとも美しい日本庭園でした。剪定などの管理が行き届いており、非常に完成度の高い日本庭園に思われました。スケール、配置、色彩等も秀逸です。私は日本庭園の専門家ではありませんが、趣味で多くの日本庭園を訪れています。京都の龍安寺天龍寺詩仙堂桂離宮の庭園、金沢の兼六園、高松の栗林公園、鎌倉の瑞泉寺の庭園などです。そんな中でも、足立美術館の日本庭園は、日本庭園の最高峰の一つだと思いました。

 

しかし、です。何かが足りない気がしました。なんと言ったらいいのか難しいですが、人工的過ぎるような印象を持ちました。「すき」がないとも言いましょうか。ある種の「遊び」や「外し」の要素が感じられないのです。人間を例にとると、容姿端麗、頭脳明晰、性格も良く、スポーツ万能の人間のような感じです。(こんな人間はいないと思いますが)こういう人間は、憧れや畏怖の対象にはなっても、人を惹きつけることは難しいような気がします。完璧過ぎて近寄り難い、となるのではないでしょうか。足立美術館の日本庭園も完成度が高過ぎて、逆に違和感を感じさせてしまうのかもしれません。私はそう感じました。

 

私が一番好きな日本庭園は、鎌倉の瑞泉寺の庭園です。鎌倉時代の後期から室町時代にかけて活躍した名僧、夢窓疎石が作庭しました。夢窓疎石は作庭家としても大変有名な人物です。瑞泉寺の日本庭園は、日本庭園好きの間ではよく知られていますが、一般的にはそこまで有名ではなく、観光客もほとんどいません。この庭園の魅力は、自然と一体化していることだと思います。岩をくり抜いた洞窟の前に池、橋があります。手入れが徹底されている感じはありませんが、それが逆に自然さを感じさせます。人工美と自然美が調和しているように思います。

 

少し話が飛んでしまいました。足立美術館の日本庭園は、間違いなく日本庭園の最高峰の一つだと思います。庭園としてだけではなく、人工美の一つの極地だとも思いました。ただ、「すき」がなく完成度が高過ぎるため、私は逆に違和感を感じてしまいました。少し「すき」が欲しいところです。人間も、ちょっと「すき」のある人のほうがチャーミングですよね。

懐かしのチューペットは何処に

私は小さい頃、チューペットが大好物であった。

チューペットとは、アイスの一種である。細長い形状をしており、凍らせると真ん中でポキッと折ることができ、二つになる。砂糖水に色をつけて凍らした程度の簡素なアイスであり、高級品でもなければ、グルメを唸らす逸品でもない。でも、私はこのチューペットが好きで、しょっちゅう食べていたものだ。

 

先日、あるエッセイを読んでいたら、筆者が小さい頃に苦手だった食べ物について書かれていた。たくあんが大の苦手だったとのことである。戦中、戦後の貧しい時代だったこともあり、苦手な食べ物でも残すことは親に許されなかったようである。このエッセイを読み、自分の小さい頃に苦手だった食べ物について思い出そうとしたところ、なかなか思い浮かばない。私は小さい頃から、食べ物の好き嫌いはほとんどない。強いて言うなら、牛乳や生トマトはあまり得意ではなかったが、大嫌いとも言えない。出されたら食べるし、飲む。そんなわけで、小さい頃に苦手だった食べ物ではなく、好きだった食べ物について回想してみた。すると、チューペットの記憶が蘇ってきたのである。

 

なぜチューペットがそんなにも好きだったのだろうか。三つ程理由が考えられる。一つ目は味である。私は小さい頃から、甘い物はあまり食べない。アイスクリームのような甘ったるいお菓子より、チューペットのようなさっぱりした氷菓子を好んだのかもしれない。二つ目は、共食の体験である。チューペットは一つを二つに割ることができ、誰かと共に食べることができる。それが楽しかったのかもしれない。三つ目は、音である。カチカチに凍らしたチューペットを思いっきり膝に叩きつけると、ポキッという小気味のよい音を立てて、折れる。その音が好きだったのかもしれない。

 

最後にチューペットを食べたのはいつだったのだろうか。思い出せない。おそらく小学生の時が最後だろう。ということは30年くらい前である。そして、私はチューペットのことを30年近く、思い出しもしなかったのである。チューペットに対して、申し訳ない気がしないでもない。こんなふうにして、大好きだったもの、こと、そして人々についても、時間の経過とともに忘れ去ってゆくのだろうか。そう思うと、どこか寂しい気になる。

 

まだチューペットは売っているのだろうか。久しぶりに食べてみたい、探してみよう。

台所の思想史 〜ナチスの台所〜

「私がこの世で一番好きな場所は台所だと思う」

吉本ばななさんの小説『キッチン』の冒頭の文章です。私はこの本が大好きで何度も読み返しました。とても温かい気持ちになれる本です。台所というと日常生活、家庭などを思い浮かべますよね。対して、ナチスと言えば異常性や悪の象徴と考えられており、台所とはなかなか結びつかないでしょう。しかし、当然ながらナチスドイツにも台所はありました。ナチスドイツの台所はどのようなものだったのか、より具体的にはどのような思想的背景に支えられた台所だったのかを考えてみます。今回は京都大学の准教授で農業思想史を主に研究している藤原辰史氏の著書『ナチスのキッチン「食べること」の環境史』を参考にします。

f:id:kumanonchu:20201018154018j:image

この本は第一次世界大戦後のワイマール共和国からナチスまでのドイツの台所をめぐる思想史についての考察をしています。ナチスについて、政治、経済、軍事、歴史、または精神病理学などの観点から語られることは多いですが、台所の思想史という切り口は珍しく、興味を持ちました。

 

著者はナチスの台所思想は、テイラー主義に基づいていると述べています。テイラー主義とは、科学的見地に基づいた労働管理の理論です。具体的には、労働の各要素を分解し、数値化して観察し、無駄な作業をあぶり出し、生産性の向上を図るといった理論です。現代の企業経営、特に製造業の生産管理などにおいても用いられています。テイラー主義では、暗黙知や口頭伝承のような属人的な仕事を否定します。つまりは職人気質は認めないということです。仕事をマニュアル化し、いつでも誰でもできるようなルーティンワークにすることを目指します。ある意味では、人間を機械のように扱う、機械主義に通じる考え方です。

 

ではナチステイラー主義的な台所とはどのようなものだったのでしょうか。一つ目は台所の「工場化」です。機能的で効率的な台所の配置、最新の調理器具の採用などです。無駄を排して、機械のように台所仕事をすることが良しとされていました。二つ目は栄養至上主義です。美味しさや愉しさのような計測不可能な感情はかき消され、健康に良い食べ物、ビタミンが多い食べ物、最終的には頑強な兵士を育成する食べ物が推奨されました。

 

ナチスの台所思想は現代にも受け継がれているような気がします。機能的なキッチン、栄養至上主義などなど。私はこれらを完全否定はしません。料理の手間が減れば便利ですし、栄養ももちろん大切です。ただ、どこかに違和感を感じます。台所の「工場化」を突き詰めたら、料理は各家庭ではなく、どこかの大きな食品工場で作って、各家庭に配分するのが最も効率的という話になります。栄養至上主義を突き詰めたら、サプリだけで栄養補給すれば良いことになります。料理は画一的な工業製品とは違うと思います。各地域、各家庭には、郷土料理なり家庭料理があります。これらは主に口承などを通じて受け継がれてきた文化であり、これらの文化の多様性を守っていきたいと思います。あと、食べ物は単なる栄養源ではありません。食材を調達し、料理し、共食する、それらのプロセス全てを含んだ、全体的な食の体験も重要だと思います。

 

ナチスの台所思想とは、テイラー主義に基づいて、効率最優先で人間を機械のように扱い、工業製品のように画一的な料理を作り出そうという思想です。この思想は食と人間の多様性、全体性を破壊しかねず、問題があると思われます。最後に吉本ばななさんの小説『キッチン』の文章を再度引用します。

 

「どこのでも、どんなのでも、それが台所であれば食事をつくる場所であれば私はつらくない。できれば機能的でよく使いこんであるといいと思う。乾いた清潔なふきんが何まいもあって白いタイルがぴかぴか輝く。ものすごいきたない台所だって、たまらなく好きだ。床に野菜くずがちらかっていて、スリッパの裏がまっ黒になるくらい汚いそこは、異様に広いといい。ひと冬軽くこせるような食料が並ぶ巨大な冷蔵庫がそびえ立ち、その銀の扉にわたしはもたれかかる。油が飛び散ったガス台や、さびのついた包丁からふと目をあげると、窓の外には淋しく星が光る」

ヨーロッパ人は森がお嫌い?

湿った土や木々の香り、小鳥のさえずり、などなど森を歩くと清々しい気持ちになりますよね。私は本格的な登山はしませんが、近くの熊野古道をよく歩きます。今回は森を例にとって、ヨーロッパ人の自然観の変遷とその背景について考えてみます。

f:id:kumanonchu:20201014152112j:image

ヨーロッパでは環境保護を訴えるデモが頻繁に起こりますよね。自然愛好家や環境保護活動家は、日本などと比べるとかなり多いと思います。最近ですと、スウェーデンの少女、グレタ・トゥンベリさんが有名ですね。EUとしても環境保護に力を入れています。では、ヨーロッパ人は昔から自然愛好家だったのでしょうか。そうではないと思われます。

 

英字新聞を読んでいると、コロナ絡みで最近、このような表現をよく目にします。下記は昨日のウォールストリートジャーナルの記事の見出しです。

"JPMorgan,Citygroup Signal That Economy Isn't Out of The Woods."

訳すとこうなります。

JPモルガンシティグループは、経済はまだ危機を脱していないとのシグナルを発した。

つまり、森は危険、危機の象徴として使用されています。このような表現が英語に残っているということは、かつてのヨーロッパ人にとって、森は恐怖の対象だったことを意味していると思われます。自然を愛する現代ヨーロッパ人の自然観とは真逆です。

 

グリム童話の『赤ずきんちゃん』の話においても、森は恐ろしい場所だとされていますね。赤ずきんちゃんは森の中で狼に食べられてしまいます。

 

ではなぜヨーロッパ人の自然観は、恐怖の対象から愛好の対象へと逆転したのでしょうか。この問いを解明するには、ヨーロッパの宗教的背景を理解する必要もあり、容易ではないのですが、概ねこのように言えるかと思います。かつて森を恐れ、敵対視し、破壊してきたヨーロッパ人は、悔恨の念から、贖罪の意識から、逆に森を大切にするようになったのではないかと。

 

私は現代ヨーロッパ人の自然愛好家を偽善者であると批判しているわけではありません。過去に対する反省によって、自然を大切にするようになった(と思われる)こと自体は、良いことだと思います。ただそのことは、ヨーロッパ人が本来的に、歴史的に自然愛好家だったということを必ずしも意味しないと思います。現象面だけを見るのではなく、歴史的、心理的背景も理解する必要があると思っています。

 

日本人はどうでしょうか。日本人にとっての森は、恐怖の対象という側面もあったでしょうが、基本的には信仰、敬愛の対象でした。つまりは、森と敵対してきたのではなく、基本的には共生してきたと言えます。このことが逆に、現在の日本において森林保護活動が活発にならない原因になっているという側面もあるかと思います。ヨーロッパの逆ですね。もともと森と共生してきたのだから、いまさら意識的に保護しようとはならないのかもしれません。贖罪意識を持ち難いとも言えます。

 

いかがでしたでしょうか。現在のヨーロッパ人には自然愛好家や環境保護活動家がとても多いですよね。ただ、歴史を遡ると、ヨーロッパ人には自然に対する恐怖、敵対心があり、自然を破壊してきたという側面があります。そのことに対する贖罪意識から、現在のヨーロッパ人は逆に自然愛好家になったのではないかという話でした。

平家の落人伝説はいかにして作られたのか? 〜祖谷の平家落人伝説〜

昨日、平家の落人伝説で有名な徳島県祖谷渓のかずら橋を訪れました。かずら橋は木のつるで出来た橋です。歩道には割と大きな隙間があり、下を流れる激流が見えてスリル満点でした。

f:id:kumanonchu:20201012164021j:image

f:id:kumanonchu:20201012164246j:image

かずら橋のすぐ近くに「琵琶の滝」があります。琵琶の滝の名前の由来が興味深かったので紹介します。滝のすぐ横に立っていた案内板の写真です。

f:id:kumanonchu:20201012182416j:image

f:id:kumanonchu:20201012165132j:image

要約します。源平の戦いに敗れた平家の一門は、安徳天皇を奉じ、この地に潜入し土着化したと伝わっており、その落人たちは、昔日の都の華やかな暮らしをしのびながら、この滝の下で琵琶の音を奏でながら、零落した身上を慰め合ったという伝説が残っているとのことです。

 

なんとも哀しい話ですよね。文学的観点から見ると、この話の魅力は劇的なコントラストにあると思われます。都で栄華を極めた、平家が戦いに敗れ、山深い秘境の地で生き延びたというコントラスト、戦乱をなんとか潜り抜けた武士たちが、琵琶の音を奏でてこの世の哀しみを慰め合ったというコントラスト。平家物語の一章『卒塔婆流し』を思い出しました。『卒塔婆流し』は平清盛打倒を謀った、平康頼らの陰謀が、清盛に察知され、絶海の孤島である鬼界ヶ島に流された時の話です。康頼は帰京を願い、千本の卒塔婆(お墓に立てられている木札)に望郷の想いを綴り、海に流したという話です。

 

琵琶の滝の伝説や卒塔婆流しの話が史実に基づくものなのかどうかは分かりません。私としては史実かどうかよりも、これらの物語を紡ぎ出し、語り継いできた、いにしえの人々の心象風景に興味があります。では具体的にどのような心象風景だったのでしょうか。これらの物語を紡ぎ出し、語り継いできた人々は、栄華を極めた身から零落した、平家の人々に対して心を寄せ、できればどこかで生き延びていて欲しいと願っていたのではないでしょうか。私はそう思います。

 

平家の落人伝説はいかにして作られたのか?栄光の地位から落魄した、平家に対して心を寄せた、いにしえの人々の心象風景が作り上げた物語だと思います。

 

もしかしてですが、祖谷に落ち延びた平家の落人たちは、哀れな余生を送ったわけではないのかもしれません。戦乱や権力争いから離れ、山深い祖谷の地で静かに暮らし、心は穏やかだったのかもしれません。琵琶の音を奏でて零落した身を慰め合ったのではなく、深い山々に抱かれながら、滝の下で琵琶の音を奏でる風流を楽しんでいたのかも。そんな物語も有り得たし、また有り得るのかもしれません。