田舎暮らし in 熊野

田舎暮らしの日常、旅行、グルメ、読書について書いています。

天空の郷・果無集落で「何も無いこと」の意味を考えてみた。

先日、奈良県十津川村を車で走っていたら、果無集落の道標を見つけました。聞いたことのない名前でしたが、ロマンチックな名前に惹かれて、訪問しました。果無、果てが無い、つまりは終わりが無い、無限、永遠みたいな意味でしょう。

f:id:kumanonchu:20200907092746j:image

狭い山道を3kmくらい登っていくとたどり着きました。見渡す限り山々が広がっていました。とても美しい集落です。山の上にあるので、涼しいです。風もよく通ります。

f:id:kumanonchu:20200907093250j:image

集落といってもぽつんぽつんと数軒の家があるだけです。

f:id:kumanonchu:20200907093440j:image

滝もありました。そこまで大きな滝ではないですが、水量がすごいです。

 

果無の名前の由来が気になります。果てし無く山々が広がっているという意味なのでしょうか。詳しくは分かりません。個人的には、想像力の源泉が果てし無くあふれる土地、という意味なのではないかと想像します。

 

果無集落には自然を除いてほとんど何もありません。何もないと、人間のある種の感性が研ぎ澄まされ、想像力が高まるのかもしれません。

 

夜は漆黒の闇に包まれ、満天の星々がさぞかし美しいことでしょう。星空を眺めながら、遥か彼方の星たちについて想いを馳せます。人間が見ている星の光は、実は過去の光に過ぎないのです。1万光年離れている星であれば、人間が見ている星の光は1万年前の光です。ということは、その星はもはや宇宙に存在しないのかもしれません。果無集落に暮らしていたら、そんなことを想像するのかもしれません。

 

あるいは野生動物について。果無には、様々な野生動物が生息していることでしょう。鹿、猪、熊、猿、イタチなどなど。夜になれば、悲しそうな鹿の鳴き声を聞く機会も多々あるでしょう。何か悲しいことがあったのかな、親を亡くした小鹿が泣いているのかな、などと想像するのかもしれません。

 

果無には何も無い、だけど何でも有る、といった逆説が成立するのかもしれませんね。人間は何もなければ、想像の世界をふくらませます。果てし無い想像の世界が、そこに存在するのかもしれないです。対して都会生活においては、あらゆる欲望は可視化、具象化されていますね。グルメ、買い物、映画、巨大な人々の流れ、めくるめく夜の世界などなど。こういう世界に生きていると、人間は自らの内面を深く見つめたり、想像力を働かす機会が減るのかもしれません。その意味では、都会には何でも有る、だけど何も無い、という逆説もまた成り立ち得るのかもしれないですね。

 

いかがでしたでしょうか。果無集落を訪問し、「何も無い」ことの意味について考えてみました。果無には何も無いけれども、何でも有るという逆説が成立するのかもしれません。人間は何も無ければ、想像の力によって、豊かな精神世界を築くことができるのかもしれないですね。

奈良県十津川村の温泉プールを訪問したら、まさかの展開に!

昨日、奈良県十津川村にある温泉プールに行きました。温水プールではなく、温泉プールです。温泉プールは珍しいですよね。十津川温泉は源泉掛け流しの本格的な温泉ですので、期待に胸を膨らませて向かいました。プールに入ると、なんと冷たいではありませんか!水質も温泉のそれではなく、普通の水道水のようです。いぶかりながらも、誰もいないプールを1kmくらい泳いだ後にシャワーを浴びて帰ることにしました。すると、シャワー室にこのような文言の貼り紙がありました。(一字一句変えず、そのまま引用します)

 

お客様へ

平素は、温泉プールをご利用頂き、誠にありがとうございます。

シャワーには「温泉」を使用しております。

 

ええぇぇ!シャワーだけが温泉かい!プールは温泉じゃないのかよ!とツッコミを入れたくなりました。まあ暑い日だったので、冷たい方が気持ちよかったのだと自らに言い聞かせて、温泉プール(正確には温泉シャワー)を後にしました。

 

帰り道に偶然、温泉シャワーの近くで素晴らしい秘境を見つけました。そこは果無集落です。天空の郷と呼ばれているようです。また次回のブログで紹介します。

f:id:kumanonchu:20200906144720j:image

テスラ的「生き方」とは? 〜イーロン・マスクの伝記を読んで〜

テスラはアメリカの電気自動車メーカーです。最近、トヨタを抜いて時価総額で世界一の自動車メーカーになりました。販売台数ではトヨタの30分の1程度しかないにも関わらずです。しかも利益をほとんど出していません。将来に対する投資家の期待値が高いということでしょう。イーロン・マスクはテスラの創業者(正確には共同創業者)、CEOです。破天荒な人物としても有名ですね。最近、ロックダウン命令を破って、逮捕される覚悟で工場を再開させました。人類の火星移住や人間の脳をコンピュータに接続する技術の開発などを進めています。

 

今回はアメリカのジャーナリスト、アシュリー・バンズの著書『イーロン・マスク 未来を創る男』を通して、テスラ人気の理由を探っていきます。 

f:id:kumanonchu:20200904140858j:image

テスラが人気を集めている理由、それはテスラ的「生き方」にあると思われます。テスラ的「生き方」とはイーロン・マスクの生き方と同義です。テスラ的「生き方」とは、ある種のクールな生き方といえるのでしょう。壮大なビジョン、未来志向、環境意識が高い等々。テスラの車を買う人々は、単に車を買っているのではないのだと思われます。テスラの車に乗っていると、自分自身がクールな人間になったような気になるということでしょう。  

 

テスラ的「生き方」をもう少し掘り下げて考えてみると、3つのキーワードが浮かび上がります。一つ目は壮大なビジョン、二つ目は強烈な実行力、三つ目は全体性の追求です。順に説明します。

 

①壮大なビジョン

電気自動車を本格的に普及させることで、二酸化炭素の排出量を削減し、地球を救うというビジョンです。他の大手自動車メーカーも電気自動車の開発、販売を急いでいますが、テスラのような強烈なメッセージ性は感じさせません。「電気自動車の波に乗り遅れたら、経営が揺らぐかもしれないから、急いで電動化を進めよう」みたいな守りの姿勢が濃厚に感じられます。テスラの場合は、自動車電動化の波そのものを自ら創り出したことから来る、ビジョンの強さを感じます。

 

②強烈な実行力

イーロン・マスクは壮大なビジョンを掲げるだけではなく、実行に移してきました。テスラは時価総額で世界一の自動車メーカーになりましたし、電気自動車の販売台数でも世界一です。テスラに対しては懐疑的な意見も多いです。私は毎日、アメリカの経済紙、ウォールストリートジャーナルを読んでいます。ウォールストリートジャーナルはテスラに対してかなり懐疑的な立場です(最近、テスラに対して批判的な記事は減りました)テスラは何度も経営危機を経験してきました。一時期、イーロン・マスクはテスラ売却を真剣に検討していたようです。本書によりますと、イーロン・マスクはグーグル創業者の1人のラリー・ページに、「最悪の事態になったらテスラを買収して欲しい」と頼んでいたそうです。なんとか危機を乗り越え、テスラがグーグルに買収されることはありませんでした。

 

③全体性の追求

テスラは部品や研究開発などをできるだけ内製化する方針のようです。大手の自動車メーカーは、エンジンのような基幹品以外は、外注することが多いですね。ビジネス用語でいうところの水平分業モデルです。対して、テスラは内製化を進めることで、製品に対する自社のコントロールを強め、ユーザーの要望に的確且つ迅速に対応できるようにしているようです。

 

いかがでしたでしょうか。テスラ的「生き方」とは、壮大なビジョンを掲げ、逆風にめげずに強烈な意志で実行に移すという「生き方」です。具体的なビジネス手法としては、内製化を進めることで、自社のコントロールを強め、ユーザーの要望に的確且つ迅速に応えるといったものです。テスラ的「生き方」は、アメリカ人の理想とする「生き方」なのでしょう。開拓者精神ともいえましょう。理想を掲げ、未知の大地を不屈の意志で切り拓き、自らの力で未来を創る精神です。開拓者精神は良いところばかりではありません。独善的になりがちですし、周囲との軋轢、対立も出てきます。日本人が理想とする、「和をもって尊しとなす」という「生き方」とは相入れない部分もあるでしょう。ただ、私としては、開拓者精神と和の精神を対立的に捉えたくはありません。二者択一ではなく、補い合う関係でありたいです。日本人は周囲との軋轢を恐れて、自己主張を控えがちです。これは美徳でもありますが、場合によっては物事を停滞させる原因にもなります。一般的な日本人は、周囲と調和する能力は既に高いと思われます。ですので、自分とは違う考えを持つ人、具体的にはイーロン・マスクのような開拓者精神を持った人から意識的に学ぶ必要があるような気がします。

知られざる熊野の聖地『宮井戸遺跡』とは?

熊野にはこの世とあの世の境があるといわれています。そこは宮井戸遺跡です。ほとんど知られていない場所です。

 

熊野といえば熊野古道熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社などが有名ですよね。他にも那智の滝や日本最古の神社と伝えられている花窟神社なども人口に膾炙しています。宮井戸遺跡は一般的にはほとんど知られていない場所です。地元の方にもほとんど知られていません。熊野に住んでいる私も最近まで知りませんでした。熊野郷土史家の方に教えて頂きました。大変神秘的な場所なので、是非一度訪れてみるべきだ、と言われて先日訪問しました。

f:id:kumanonchu:20200828133646j:image

f:id:kumanonchu:20200828150901j:image

f:id:kumanonchu:20200828133702j:image

宮井戸遺跡は和歌山県新宮市に位置する、熊野川河口にひっそりとたたずんでいます。小さな森のようになっています。一周するのに1分もかからない小さな森です。私以外、誰もいませんでした。中には大きめの岩がいくつもあります。この場所には古代から神社があったようで、黄泉道守命大神を祀っています。

 

少し拍子抜けしました。荘厳な建築物があるわけでもなく、見るものを圧倒するような自然物があるわけでもありません。ある意味でどこにでもありそうな小さな森なのです。郷土史家の方がおっしゃっていた神秘的な場所であるとは、どういう意味なのだろうかと。そこで、近くにある新宮市郷土資料館に行って、宮井戸遺跡について調べてみました。館員の方にいろいろと教えて頂きました。

 

宮井戸遺跡はかつて水葬を行う場所だったそうです。水葬とは遺体を水に流す葬送の一種です。今ではほとんどの人は亡くなったら火葬されますよね。江戸時代までは土葬が主流でした。古代においては、風葬なども行われていました。話を戻します。宮井戸遺跡は亡くなった方をあの世に送る場所だったのですね。つまり、この世とあの世の境だったのでしょう。生の世界と死の世界をつなぐ場所ともいえるでしょう。ある種の「結界」だったのかもしれません。宮井戸遺跡にある神社の祭神は、黄泉道守命大神です。つまり、亡くなった方を死者の世界まで道案内をする神様ということでしょう。

 

熊野は神話の時代から根の国と呼ばれ、黄泉の国、つまりは死者の世界につながる土地とされてきました。つまりはこの世とあの世をつなぐ場所だと。熊野では江戸時代まで補陀落渡海という水葬が行われていました。宮井戸遺跡はそんな熊野を象徴する場所といえるのでしょう。

 

生の世界と死の世界をつなぐ場所。恐ろしい場所のようにも思えます。これはおそらく現代的死生観による一解釈に過ぎないのかもしれません。古代人は生と死は断絶しておらず、生のすぐ近くに死があると考えていたのかもしれません。コインの裏表のように。宮井戸遺跡はどこにでもあるような日常の風景の中にとけこんでいます。何気ない日常の中に死の世界が潜んでいるのかも。恐ろしいような、引き込まれるような、生命の深淵を垣間見たような気がしました。突如、強い風が起こり、木々を揺らしながら、河口に流れてゆきました。

f:id:kumanonchu:20200828133623j:image

香港の歴史 〜東洋と西洋の間を揺れ動いて〜

香港といえば、摩天楼の夜景、繁華街の賑わい、トラムなどの様々な交通機関、グルメなどを思い浮かべますよね。私は2回、香港に行ったことがあります。バケツの水をひっくり返したような賑わいにとても惹かれました。個人的にはスターフェリーから眺める香港島の夜景が大好きです。下の写真は3年ほど前に香港を訪れた際、ヴィクトリアピークから自分で撮ったものです。

f:id:kumanonchu:20200816125510j:image

今、香港が大きく揺れています。「逃亡犯条例」改正案に端を発した、香港市民による大規模反対デモは記憶に新しいですね。最近では「香港国家安全維持法」が施行され、反政府活動を行なっている若者などの逮捕が相次いでいます。強権的な中国共産党に対する国際的な批判も高まっています。リベラル、保守を問わず、メディアの論調では自由と繁栄を謳歌する香港が、抑圧的な中国に飲み込まれることを危惧していますね。私も同じ意見ですが、緊迫する香港情勢を深く理解するためには、香港の歴史を学ぶ必要があると思い、『香港の歴史 東洋と西洋の間に立つ人々』という本を読みました。著者は香港大学文学部教授のジョン・M・キャロル氏です。香港といえば、イギリスの統治下で発展した都市であるところから、西洋的な都市であるとのイメージが強いのではないでしょうか。この本を読むと必ずしもそうではないことが分かります。西洋と東洋の間で揺れ動いてきた、複雑な香港の歴史が浮かび上がってきました。

f:id:kumanonchu:20200816132057j:image

言うまでもなく、香港は約150年間、イギリスの植民地として発展した都市です。(第二次世界大戦中の一時期は日本の統治下にありました)そして、1997年に中国に返還されました。東西の間で揺れ動いてきた香港の歴史を象徴する事件を本書の中から三つ挙げます。

 

辛亥革命の拠点としての香港

1911年に起こった辛亥革命により、清朝は倒れ、中華民国が建国されました。辛亥革命において香港は重要な役割を果たしたと言われています。革命を主導した孫文は香港で教育を受けており、香港を中国ナショナリズム運動の一大拠点としていました。やがて華人の革命派の一部は、中国から満州人(清朝を築いた民族)が追い出された後は、香港からイギリス人が追い出される番だと考え、反英運動を始めました。路上でヨーロッパ人が襲撃される事件などが起こりました。反英勢力と、反英運動に反対する華人勢力、イギリス植民地政庁との間で厳しい対立が発生しました。

 

戦間期における反英ストライキ、ボイコット

1925年に広州で外国人部隊が50人以上の中国人デモ参加者を射殺する事件が発生したことに端を発して、1925年から1926年にかけて香港で華人による大規模な反英ストライキ、ボイコットが発生しました。虐殺事件から二週間の間に5万人以上の華人が抗議のために香港を離れ、食料価格は高騰し、銀行では取り付け騒ぎが起こりました。香港経済は停止寸前の大混乱に陥りました。今回もストライキを支持する華人と支持しない華人に分かれました。

 

③戦後の六七暴動

中国の文化大革命の影響を受けた、香港の急進左派勢力が1967年に香港で大規模な暴動を起こしました。暴徒は反帝国主義を掲げ、警察を襲撃したり、車両に放火したりしました。警察側も応戦し、死者51名、負傷者800名、逮捕者は5000人を越える大惨事となりました。初期段階においては、左派勢力は香港市民から一定の支持を集めていましたが、過激化するにつれて、民衆の支持を失うことになりました。六七暴動によって、中華人民共和国とイギリス統治下の香港との間で選択を迫られた香港人は、大多数がイギリス植民地政庁の方を自らの政府とみなすことになりました。

 

本書を読んで、香港では大規模デモやストライキ、騒乱が歴史的に頻繁に起こっていることを知りました。昨年の大規模デモが初めてではないのですね。現在の香港は基本的に親西洋、反中国の流れですが、逆に振れる可能性もあるのかもしれません。10年後の香港は完全に中国に飲み込まれているのかもしれません。個人的にはそうあって欲しくないですが。歴史的に見ると、香港は親西洋、親中国の間を揺れ動いてきたということでしょう。

 

明治以降の日本も似ているような気がします。西洋化を成し遂げ、列強の仲間入りを果たした「西洋的」国家としての日本、アジアの国としての日本、この二つのアイデンティティの間で揺れ動いてきたのだと思います。このあたりの葛藤は、夏目漱石森鴎外の小説で頻繁に描かれています。欧化主義、国粋主義アジア主義アメリカニズムなどの間を揺れ動いてきました。香港も日本もこれからも東洋と西洋の間で揺れ続けるのでしょう。

義賊は民衆の英雄か、もしくは単なる犯罪者なのか?

義賊は虐げられた民衆にとっての英雄であると同時に既存の秩序を乱す犯罪者でもあります。

 

義賊とは弱きを助け、強きを挫く盗賊のことを指します。権力者に立ち向かうアウトローみたいなイメージです。貧しい民衆などからは盗まず、時の権力者や富める者から富を奪い、民衆に分配します。よって民衆からは英雄視されることが多いです。  

 

義賊とされている人々をあげてみます。まずは実在した人物から。ロビン・フッド石川五右衛門、ボニーとクライド、プーラン・デヴィーなどです。フィクション上の人物としては、ルパン、ゾロ、漫画「ワンピース」のルフィの一味などです。

 

今回は立教大学教授の竹中千春氏の著書『盗賊のインド史ー帝国・国家・無法者ー』を通して、実在したインドの「盗賊の女王」プーラン・デヴィーの生涯を紹介します。

f:id:kumanonchu:20200805141023j:image

プーランは1963年にインド北部の貧しい家庭に生まれました。小さい時から肉体的、精神的暴力にさらされ、わずか11歳で結婚させられます。30代の夫から虐待を受けた末、追放され、実家に戻りました。今度は身内の争いに巻き込まれ、警察に逮捕されてしまいます。警官からも暴力を受けます。プーランはさらなる苦難にさらされます。盗賊団に誘拐され、ここでもまた虐待されます。盗賊団の一員のヴィクラムは、プーランに想いを寄せ、首領を殺害し、2人で逃げ出しました。そして2人でヴィクラム=プーラン盗賊団を結成しました。やがてヴィクラムも部下によって暗殺されました。プーランは別の盗賊団に加わり、ヴィクラム暗殺の報復を行いました。プーランは警察に投降し、裁判を受けることなく11年間を檻の中で過ごしました。1994年に釈放、そして1996年に国会議員に立候補し当選、国会議員になりました。そして2001年に自宅前で暗殺されたのです。

 

なんとも壮絶な生涯ですね。私はこの本を読んで正義とは何かについて考えさせられました。プーランはれっきとした盗賊です。既存の法治国家の論理から考えると、単なる犯罪者、不法者です。その意味では正義の対極にいる人物でしょう。ただ、プーランにとって復讐は正義の鉄槌を下す行為だったのです。公正な法の裁きや国家の保護を受けられなかった自らの過酷な人生、同じような苦難に見舞われている民衆の姿を鑑みて、誰も不正を糾さないのであれば、自ら行動を起こす、ということなのでしょう。本文を引用します。

「プーランは、盗賊の伝統を引き継いで、血なまぐさい襲撃に出かける前には、必ずあらかじめ決めておいた道路脇の聖なる場所を選んで、女神に供え物をし、静かな祈りの儀式を行なってから出発した。プーランにとって復讐とは、神にかわって正義を下すことにほかならなかった。そして、常に死の影に脅かされている無法者にとって、神の加護こそ大切な拠りどころだったのである」

 

正義とは何か。これはとても難しい問いです。人によって、状況によって、正義は一つではなく、複数存在するのでしょう。何が正義かについてなんらかの選択を行わなければならないとしても、自分とは違う考え方をしている人間がいることも受け入れたいです。そして、自分とは異なる考え方を持っている人間は、なぜそのように考えるようになったのか、というところまで想像できる人間でありたいものです。

 

義賊は民衆の英雄であると同時に犯罪者でもある。

この両義性を私は受け入れたいと思います。

水俣病闘争とは何だったのか? 〜『苦海浄土』を読んで〜

「海の上はほんによかった。じいちゃんが艫櫓ば漕いで、うちが脇櫓ば漕いで」

(『苦海浄土石牟礼道子著から引用)

f:id:kumanonchu:20200730135912j:image

水俣病に苦しみ、命を終えようとしている漁師の嫁御の言葉です。夫と共に海に出ていた頃を懐かしんでいるのでしょう。彼女は夫を残して40代の若さで亡くなりました。

 

苦海浄土』は水俣病に苦しむ方々の苦難を描いたノンフィクション小説です。高度経済成長に突き進んでいた当時の日本社会の暗部を描いた小説でもあります。有名な本なので知ってはいたのですが、なかなか読むことができませんでした。なぜなら、私にとって水俣病は人ごととは思えず、生々しく感じていたからです。私は四日市の出身です。四日市水俣と同じく、公害に苦しんだ歴史があります。教科書にも出てくる、四日市ぜんそくの場所です。私が生まれた時には、基本的には解決していましたが、被害者の方から直接話を聞く機会もあり、痛々しい記憶として心のどこかに沈殿していました。今回、故郷の負の歴史とも向き合うつもりで『苦海浄土』を読みました。

 

水俣病とは水俣市の化学工場が海に流した有機水銀によって引き起こされた公害病です。多くの犠牲者が出ました。犠牲者の多くは、有機水銀に汚染された魚介類を日常的に食べていた漁民です。私は現在、とある漁村に暮らしており、漁民にとっての海の大切さをよく分かります。漁民にとって、海は単なる「職場」ではありません。彼らは海によって生き、海と共に暮らしています。最近流行りの「ワークライフバランス」なるものは漁民には存在しないです。海は仕事の場であると同時に生活の場でもあります。朝起きたら海を眺め、嵐の時は真っ先に船を見に行きます。豊穣をもたらす海に感謝するお祭りを行っています。そんな大切な海が毒物に汚染されてしまい、親しい人々や自らの命までも奪われてしまった水俣周辺の漁民の苦難、悲嘆を想うと心が痛みます。被害が出ていることを知りつつ、毒物を海に流し続けた化学会社、経済成長優先で化学会社に対する監督責任を怠った行政、水俣市民による水俣病患者に対する心ない差別などに怒りを覚えます。

 

これらを超えて、この本を読んで1番心に残ったのは、患者の方々が体現している情念です。本文を引用します。

水俣病闘争を形づくっている情念とは、都市市民社会から取り残された地域共同体の生活者たちの、まだ立ち切れていない最後の情愛のようなものであった。それは日本的血縁のありようの、最後のエゴイズムと呼んでもよかった。親が子に対して抱く情愛、妻が夫に抱く情愛、人が、人に抱く情愛。都市市民社会では、個人の自我を縛るものとして、すでに脱却されつつある地縁血縁によってこの人たちは結ばれてもし、ゆえに近親的な幾筋もの憎悪や打算でも結ばれていた。〈連帯〉や〈解放〉や〈組織〉や、〈自立〉や〈関係性〉などで解こうとすれば白々しくさえなる、一種しぶといしたたかな血縁集団がここにわだかまっている。親を失うこと子を失うこと、兄弟を失うことに対して、これほどまでの愛怨をあらわすことは、地縁のきずななどを、解き放つ方向にのみ向かってきた近代都市生活民であったならば、もしかして希薄であったのではあるまいか。だから、たぶんこの水俣の患者たちの姿は、日本常民がもはや失いかけ、まだ魂の奥深くに残していた、切実で孤独な情念を揺すぶりおこしたのにちがいなかった」

 

水俣病闘争とは、狭義に捉えると被害者とその支援者による、公害を引き起こした化学会社や、監督責任を怠った国や県に対する訴訟、デモなどの闘いを指します。「闘争」やある種の「運動」には、自立した個人の連帯により、社会の不正を糾す、正義を追求する、といったような近代主義的な理念が背景にあるように思えます。ある種の政治性も絡んできます。水俣病闘争においても、市民団体や政治団体などが自らの思惑から患者を支援しました。

 

私は「闘争」や「運動」が必然的にもたざるを得ない、近代主義的な理念や政治性を否定はしません。ただ、水俣病闘争の本質はそこにはないように思えます。では水俣病闘争とは何だったのか。公害によって失われつつある故郷、家族に対する情念から発せられた被害者たちの叫びだったのだと思います。家族を愛し、海と共に生きてきた暮らしが、公害によって失われてしまったことに対する漁民の怒り、悲しみ。返して欲しい、海を、家族を、幸せだった生活を。

 

私は現在、田舎の漁村で漁民と共に暮らしています。情念がまだ色濃く残っている所です。情念の強い社会は良いことばかりではありません。人と人の距離が近いということは、諍いとも隣り合わせです。堅苦しい部分もあります。ただ、忘れずにいたいです。愛憎含めた情念によって、人間はいままで生きてきたことを、そしてこれからも生き続けるであろうことを。