田舎暮らし in 熊野

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真の知者とは? 〜教養として聖書を読んで〜

知者とはどのような人物を指すのでしょうか。一般的には優れた見識を有し、正しく物事を判断できる人間、となるかと思います。この意味での知者に人間は本当になり得るのでしょうか。聖書を通して、真の知者とは何者かについて考えてみます。

 

聖書は言うまでもなくキリスト教聖典です。正確に言うとキリスト教ユダヤ教聖典です。聖書は新約聖書旧約聖書から成っています。キリスト教聖典新約聖書旧約聖書です。ユダヤ教聖典旧約聖書です。ただし、ユダヤ教徒は自らの聖典旧約聖書とは決して呼びません。タナハと呼びます。

 

私自身はキリスト教徒でもユダヤ教徒でもありません。葬儀や法事の時は仏教、お正月は神社に初詣に行きます。つまりは特定の信仰を持たない、平均的な日本人です。そんな私が何故、聖書を読んだかと言うと、人間や社会に対する理解を深めるためです。聖書は世界で最も読まれている書物であり、現代社会にも多大な影響を与えています。教養として聖書を読む意義は十分にあると思っています。私はミッション系の大学に通っていましたので、それなりに聖書を読んだことがありましたが、すべては読んでいませんでした。この度、旧約聖書新約聖書のすべてを読みました。

 

最初の問いに戻ります。真の知者とはどのような人間のことを言うのでしょうか。逆説的表現になりますが、自らは無知であることを知っている人間、となるのではないでしょうか。ソクラテスの言ったとされる「無知の知」です。謙虚な人間とも言えるでしょう。聖書でも謙虚な人間を褒め称え、傲り高ぶる者、傲慢な人間を厳しく戒めています。3つの例をあげます。

 

一つ目は有名な旧約聖書の創世記のアダムとイブ(エバ)の話です。楽園に暮らすアダムとイブは神から禁じられていた、善悪の知識の木になる果実を食べてしまいました。神は怒り、アダムとイブを楽園から追放し、苦難の道を歩ませることなったという話です。この話が述べているのは、本来、人間は善悪の知識、つまり物事を正しく判断する力を持っていないということかと思われます。生半可な知識を身につけたことで不幸になったと。

 

二つ目は旧約聖書ヨブ記です。ヨブは敬虔で正しい人物とされています。そんなヨブですが、苦難に直面し、神を責めます。

「神よ わたしはあなたに向かって叫んでいるのに あなたはお答えにならない。御前に立っているのに あなたはご覧にならない。あなたは冷酷になり 御手の力をもってわたしに怒りを表される。」

神は怒り、答えます。

「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて 神の経綸を暗くするとは。」

ヨブは神に謝罪します。

「わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。」

神はその後、以前にも増してヨブを祝福されたという話です。この話は人間の知識や知恵は不完全であることを述べていると思われます。

 

三つ目は新約聖書のマタイによる福音書です。弟子がイエスに天の国で誰が一番偉いのか尋ねます。イエスはこう答えます。

「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」

つまりは自らには知識や知恵があると傲り高ぶる者ではなく、無垢で自らを低くする人間が最も偉いと。

 

聖書では知識や知恵そのものを否定している訳ではありません。知識や知恵を褒め称える記述も多いです。例えば、有名なソロモンの知恵などです。ただ、聖書で褒め称えられている知者とは、自らを知者であると傲り高ぶる者ではなく、自らの不完全さを認め、神を敬う敬虔な信者のことだと思われます。

 

私自身はキリスト教徒でもユダヤ教徒でもないので、真の知者とは神を信じる敬虔な信者だと言われても納得はできないです。ただ、自らの不完さを真摯に認める人間、謙虚な人間、「無知の知」を知る人間が真の知者だという考え方には完全に同意します。自らは知者であると傲り高ぶる人間は、成長しませんし、他者から尊敬されることもないでしょう。そのような人間はカルロス・ゴーンのような末路を辿ることになるのでしょう。自分は不完全な人間であることを認め、謙虚に学び続ける人間でありたいと思います。