田舎暮らし in 熊野

田舎暮らしの日常、旅行、グルメ、読書について書いています。

モラエスの生涯 〜追憶の中に生きて〜

ヴェンセスラウ・デ・モラエス

明治大正期に来日し、日本で終生を過ごしたポルトガル人外交官、軍人、文人です。神戸のポルトガル領事館の総領事を勤めた後、徳島で隠棲生活を送った人物です。先日、徳島を旅した際に知りました。徳島市内にはモラエスを讃える石碑などのモニュメントが沢山あり、市民に深く愛されているようでした。どのような人物なのか気になり、徳島市立図書館で複数の文献を調べてみたところ、心を打つ物語と出会いました。

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モラエス神戸在住の際に、芸者のヨネと出会い、共に暮しました。二人は結婚はしておらず、愛人関係にありました。つまり、ヨネはモラエスの妾でした。妾ではありましたが、心優しく、細やかなヨネをモラエスは心から愛していたようです。ヨネは38歳の若さで心臓病で亡くなりました。モラエスは職を辞し、ヨネの面影を追って、ヨネの故郷である徳島に移り住みました。徳島ではヨネの姪のコハルと共に質素な暮らしを送っていました。コハルとの間に子供をもうけましたが、幼くして我が子も失いました。そしてコハルも23歳の若さで結核で亡くなってしまったのです。モラエスは亡くなってしまった、愛する者たちとの想い出を抱き続け、追憶の中に余生を送りました。徳島でひっそりと独りで余生を送り、75歳の生涯を終えました。

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モラエスの随想『おヨネとコハル』の中に印象的な場面がありました。病気で衰退しきったコハルは、食欲をほとんどなくしてしまいましたが、ある時、スイカを食べたいとモラエスに言いました。モラエスは必死にスイカを探し求めて、コハルに食べさせてあげました。コハルはおいしいと言い、にっこりと微笑みました。程なくしてコハルは息を引き取ったのです。映画『火垂るの墓』に同じような場面があったことを思い出しました。

 

客観的に見ると、モラエスの生涯は苦難の人生だったでしょう。愛する人々を次々と失い、異国の地で孤独のうちに生涯を終えたのですから。ただ、私は感傷や悲哀を超えて、モラエスの生き方に感銘を受けました。モラエスの生き方、それは優しくて強い生き方だったと思います。亡くなった後も愛する人々のことを忘れず、胸に深く抱き続けたモラエス。心優しい人物だったと思います。モラエスの強さとは何でしょうか。それは決意であり、意志の強さです。亡くなった、愛する人々の想い出の中に生きるというと、一般的には繊細で感傷的な人物のように捉えられることが多いでしょう。必ずしもそうとばかりは言えないと思います。モラエスの著作を読むと、モラエスは強い決意と意志によって、亡くなった、愛する人々との想い出の中に余生を生きたことが分かります。人間は忘れやすい生き物です。モラエスは忘却に抗い、亡くなった後も愛する人々のことを愛し続けました。その意味で強い人間だったと思います。

 

徳島市のシンボル、眉山から徳島の町並みを眺めました。川と海に囲まれた、美しい水の町です。モラエスも同じ風景を見ていたことでしょう。愛する人々との想い出の中に生きたモラエス。100年の時を超えて、徳島市民に愛され続けているモラエス。私の中にも生き続けることでしょう。優しくて強い、モラエスは。

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政治はなぜ衰退するのか?〜フランシス・フクヤマの『政治の衰退』を読んで〜

民主主義は最終的に共産主義に勝利し、世界は自由な民主主義社会に収斂していく。

アメリカの政治思想家、フランシス・フクヤマは、ベルリンの壁崩壊の数ヶ月前に『歴史の終わり?』という論文でこのように述べました。この予想はある意味で当たりましたが、ある意味では外れました。冷戦の終結共産主義ソ連の崩壊によって民主主義陣営の勝利が明らかになりました。それによって、共産主義陣営の影響力は大幅に衰えました。その意味では、フクヤマの予想は当たりました。ただ、その後の中国の台頭などによって、世界が単線的に民主主義に収斂してゆくという予想は外れました。私は大学生の時に『歴史の終わり?』を読みましたが、国際政治を単純化しているように感じ、納得できませんでした。諸文明間の衝突を予想した、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』の方が説得力があると思いました。そんなわけでフクヤマの著作をそれ以来、読んでいませんでした。今回、フクヤマの最新刊『政治の衰退』を読んだところ、意外にバランスが取れており、良著だと思いましたので紹介します。

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著者は本書で政治が適切に機能するための3つの要素と政治が衰退する原因について述べています。順に説明します。

 

①政治が適切に機能するための3つの要素

国家、法の支配、政府の説明責任の3つです。国家とは基本的な公的サービスをしっかりと提供できる組織を指します。具体的には社会保障、交通インフラ、基礎教育、国防、治安などを担う、役人組織です。法の支配とは権力の有無に関わらず、万人が共通の法に従わなければいけないということです。政府の説明責任とは民主主義のことです。選挙で有権者によって選ばれた政治家は、国民に対する説明責任があります。著者は政治が適切に機能するためには、この3つの要素間のバランスが重要だと述べています。国家が突出して強く、政府の説明責任が非常に弱い、現代中国のような国は、経済成長が鈍った時に国民の政府に対する不満が噴き出す可能性が高く、適切な政治を実現しているとは言えないと。逆に国家が弱く、政府の説明責任が強い、ウクライナのような国も上手くいっていないと。ウクライナは民主主義の国ですが、国家が弱いため、内乱、外国勢力の干渉を防ぐことができずにウクライナ危機に陥りました。

 

②政治が衰退する原因

直接的には前述した、政治が適切に機能するための3つの要素間のバランスが崩れると政治は衰退すると述べています。政治が衰退する根本原因は、目的よりも手続きを重視することにあると述べています。法の支配と政府の説明責任を例にあげます。法の目的は社会正義のルールを明文化し、公平に執行することですね。実際には、膨大な手続きを理解できるのは、司法関係者などの一部の人間だけであり、結局のところ、儲けているのは彼らであり、社会正義が犠牲になっていると著者は述べています。政府の説明責任の目的は、公益を守ることですね。そのために民主的な手続きに則った選挙があります。ただ、手続きに従ったとしても、政治家は利益誘導や憎悪を煽ることで支持者を集めたり、強力な利権団体が政治献金を通して、自らの狭い利権を守るために、公益が犠牲になるという問題が起こり得ます。

 

著者は最も進んだ自由民主主義国家であるアメリカにおいて政治の衰退の問題が先鋭化していると指摘しています。政治が適切に機能するための3要素の中で、国家が弱く、法の支配、説明責任が強過ぎるため、要素間のバランスが崩れていることが問題の原因だと述べています。

 

まずは強過ぎる法の支配について説明します。アメリカでは中絶や同性婚の是非などの国を二分する論点から交通事故などの日常の出来事まで、裁判で白黒をつけようとする傾向が強いです。裁判で決着がついたとしても、敗者は心中では納得ができず、将来に禍根を残すことになりがちです。裁判の手続き自体も複雑であるため、法律の専門家なしでは成り立ちません。結局、儲けているのは彼らであり、社会正義が犠牲になりがちです。

 

次は強過ぎる説明責任についてです。アメリカの政治には歴史的に抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)の制度があります。つまりは権力の分散です。大統領、連邦議会、裁判所、州、それぞれが権力を持っています。これらの諸権力は、機能によって分割されているというより、重複していることが多いようです。その結果、大統領の決定に連邦議会が従わない、連邦議会がつくった法律を裁判所が無効化するといった事態が頻発します。拒否権政治に陥り、政治の分極化が強まり、政治が前に進まなくなります。権力の集中を防ぐ、抑制と均衡は理想的な統治制度のように思えますが、必ずしもそうとは言えないのでしょう。今のアメリカの政治状況を見ているとよく分かります。

 

では日本はどうでしょうか。本書では現代日本について詳しくは述べられていませんが、私見では日本においても政治の衰退は始まっていると思います。日本では国家は強い一方、説明責任は弱いように思えます。法の支配については平均レベルだと思います。アメリカの逆ですね。説明責任の不足と言うと政治家を責めているように聞こえるかもしれませんが、どちらかというと国民の側に問題があると思います。政治意識、主権者意識、つまりは政治に主体的に関わっていこうという意識が国民に低いため、説明責任を果たそうという意識が政治家に根付きにくいと思われます。日本人が愚かであると言っているわけではありません。お人好しなのだと思います。国の言うことに従っておけば、うまくいくはずだというようなお上意識です。日本の政治の衰退の原因は、国民の政治不信にある、とよく言われますが、私は逆だと思います。むしろ政治に対する過信にあると。政治に対する信頼それ自体は良いことだと思いますが、度が過ぎると説明責任の低下を招き、政治が衰退に陥る可能性が高いと思います。

 

いかがでしたでしょうか。政治が適切に機能するためには、国家、法の支配、説明責任の3つの要素を均衡させる必要があるという話でした。3つの間のバランスが崩れると政治は衰退に向かうというフランシス・フクヤマの説を紹介しました。政治の衰退の根本原因としては、目的より手続きが優先されることにあるのではないかとの説も述べました。目的とは社会正義や公共善、公益です。手続きとは、膨大な裁判の手続きや、選挙手続きなどです。手続きを守ったとしても、目的が犠牲になっては意味がないということでしょう。

日本人の心の原風景 〜漂泊、放浪、流謫〜

漂泊、放浪、流謫と聞いてどのようなイメージを思い浮かべますでしょうか。ある場合には、自由な旅人のような詩情あふれる、ロマンチックなイメージでしょう。あるいは、定住地を持たずに世界を彷徨う、悲惨なイメージかもしれませんし、住所不定の不審者なのかもしれません。 

 

日本人は一般的には農耕民族であり、つまりは定住民だと考えられていますよね。確かにその側面は強いと思いますが、必ずしもそれだけとは限らないでしょう。古事記日本書紀の神話を読むと、漂泊の物語が多く登場します。神話は言うまでもなく、史実を正確に反映しているわけではありません。史実の要素もありますが、多くはフィクションです。フィクションであれば、読む意味はないのでしょうか。私はそうは思いません。神話には古代人の心象風景が描き出されていると思われます。つまりは古代人の考え方や感じ方、世界観、自然観などです。神話が現代にまで残っているということは、古代人の心象風景は深層において現代人にまで受け継がれていると考えられます。であるならば、漂泊、放浪、流謫は、日本人の心の原風景として古代から現代まで生き続けていると考えられるのではないでしょうか。

 

日本文学者の中西進氏は著書『漂泊 古代十一章』の中で、記紀神話を読み解き、日本人の原質として漂泊感があるのではないかと論じています。

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ここでは三つの神話を取り上げます。一つ目はスサノオ、二つ目は神武天皇、三つ目はヤマトタケルの話です。

 

まずはスサノオについての物語です。スサノオは父神のイザナキから海原の支配を命ぜられましたが、亡くなった母の眠る、妣の国、根の堅洲国に行きたいと泣き叫びます。怒ったイザナキはスサノオを追放します。スサノオは姉のアマテラスオオミカミが治める天上世界に行きます。そこでスサノオは乱暴狼藉を働き、また追放されます。その後、スサノオは出雲の国に向かい、出雲一族の祖となります。やがて、当初の希望の通りに根の国に至ったという話です。

 

次は神武天皇の話です。所謂、神武東征です。神武一行は新たな国作りを目指して、日向の高千穂から乾坤一擲の旅に出ます。長く厳しい旅路の末、大和の地にたどり着き、大和王権を打ち立てたという話です。

 

最後はヤマトタケルです。ヤマトタケル景行天皇の王子とされています。勇猛なヤマトタケルを父は恐れ、異族征伐を命じます。事実上の大和追放でした。ヤマトタケルは九州から東国まで戦野を漂泊します。疲れ果てたヤマトタケルは、大和を目前にして現在の三重県亀山市に位置する能褒野で亡くなりました。死後、白鳥となり、天に昇っていったという話です。

 

この三つの話に共通するのは、三者共に漂泊者であったということです。そして、漂泊そのものを目的にしていたのではなく、安住の地、定住の地を求めて彷徨っていたということです。スサノオ神武天皇は安住の地、原郷にたどり着きました。対して、ヤマトタケルは、安住の地である大和に帰ることができずに、望郷の歌を残して、失意の中に亡くなりました。

 

私は小さい時から、漂泊者に心を惹かれてきました。ヤマトタケルの物語は大好きでしたし、日本以外でも幌馬車でヨーロッパを転々とするジプシー(ロマ)や世界中に離散したユダヤ人、ラクダに乗ってアラブの砂漠を行き来するヴェドウィンなどに関心を持ってきました。何故かはよく分からなかったのですが、この本を読んで、腑に落ちた気がします。日本人の心の原風景に、漂泊、放浪、流謫といったものがあるのでしょうね。安住の地、原郷を求めて放浪する、そんな原風景が私の心の中にも脈々と生き続けているのでしょう。

ある雛鳥の生涯 〜小さきものの死を悼んで〜

昨日、ある雛鳥が短い生涯を終えました。

わずか3日間の命でした。

 

その雛鳥は私の家の庭にあるポストの上で、すくすくと育っていました。親鳥が苔をせっせっと寄せ集めて作った巣です。ツバメでもスズメでもなく、おそらくウグイスです。半月くらい前に巣が出来ました。親鳥は卵を産み、大切そうに卵を温めていました。

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上の写真は、巣で卵を温めている親鳥です。やがて3匹の雛鳥が誕生しました。4日前の出来事です。ピッピッピっと元気よく鳴きながら黄色いクチバシを巣から突き出して、親鳥にエサをねだっていました。昨日の朝、私は仕事に行く前に巣を覗くと、雛鳥は元気そうに鳴いていました。昼過ぎに仕事が終わり家に帰り、雛鳥の様子を見ようとしたらば、無残にも巣はなくなっていたのです。地面に散乱していました。3匹の雛鳥は巣の残骸の傍らで息絶えていました。1匹はなんらかの生物に食べられた形跡があり、残りの2匹は半分干からびていました。カラスかトンビに襲われたのでしょう。

 

半月くらい前から親鳥による巣作り、抱卵、そして雛鳥の誕生、生育までの様子をつぶさに見てきた私。3日間の短い生涯を終えた雛鳥の無残な姿を見て、不思議な程に心が痛みました。私は野鳥愛好家でもなければ、動物愛好家ですらないです。ペットは飼っていないですし、野生動物にエサをあげたりもしません。そんな私ですが、あまりにも短かった雛鳥の生涯を想うと心が痛みます。

 

冷静に考えると、厳しい自然の掟なのでしょう。弱肉強食、ある生命が生き延びるためには他の生命を犠牲にせざるを得ないという厳粛な自然の掟。私自身、鶏肉も卵も食べます。そんな私が鳥の死を嘆くなど、とんだ筋違いなのかもしれません。それでもやはり悲しいです。命を慈しむ自分、生物の命を奪わないと生きていけない自分、2人の自分がいるということでしょう。フランシス・コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』の中の台詞を思い出しました。

“There are two of you.one that loves,one that kills”(あなたの中には2人の人がいる。1人は愛し、1人は殺める)

 

昨日、雛鳥の遺骸を庭に埋葬しました。やがて土に還り、新たな植物を育む養分となることでしょう。

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昨日の朝まで雛鳥が元気に暮らしていた巣は、もうありません。我が家のポストは、何もなかったかのようにぽつねんとたたずんでいます。

 

どこからかウグイスの泣き声が聞こえてきました。我が子たちの死を悼む親鳥の声でしょうか。木々が微かにざわめきました。

海藻が変える未来!〜今、ヨーロッパで海藻が注目されている理由〜

昆布出汁、わかめの味噌汁、海苔巻き、もずく酢、ひじきの煮付けなどなど、日本では幅広く海藻が食されていますよね。おそらく日本人は世界一、海藻好きな国民でしょう。実は今、ヨーロッパでも海藻に注目が集まっているようです。ヨーロッパの放送局、euronews.で興味深い番組が放映されていましたので紹介します。

 

2012年からオランダの企業が海藻(真昆布)の養殖に取り組んでいます。需要も伸びてきているようです。食材としてももちろんですが、化粧品や肥料、バイオ燃料の原料としても注目が集まっているようです。食料としては、乾燥後に粉末状にし、ハンバーガー(植物肉)のパテに練り込んだり、飲み物に入れたりして利用されているようです。今、ヨーロッパで海藻に注目が集まっている理由は、主に3つあります。順に説明します。

①環境に優しい

②健康的

③美味しい

 

①環境に優しい

海藻の養殖には化学物質などが使われておらず、海の中の栄養と日光のみで生育するため、海洋汚染を引き起こさないようです。魚のエサにもなるため、既存の生態系とも共生できるとのことです。

 

②健康的

海藻にはうまみが含まれおり、塩などの添加物を少なくできるため、健康的な食材として注目が集まっているみたいです。ミネラルも豊富です。

 

③美味しい

繊細な味が受けているようです。微かに土っぽく、潮の香りがしてとても美味しいと紹介されていました。

 

いかがでしたでしょうか。今、ヨーロッパで海藻に注目が集まっている理由を紹介しました。食味もさることながら、ヨーロッパで海藻が注目を集めている主な理由は、環境に優しいという点にあるように思われます。倫理的消費の一環として注目されているのでしょう。日本にはあまりない視点で興味深かったです。美味しい、健康的、そして環境に優しい海藻は、これから世界中で普及が進むのかもしれませんね。私の暮らしている熊野では、漁師さんがヒロメという海藻を養殖しています。基本的に地元でのみ流通している知る人ぞ知る海藻です。軽く湯にくぐらして、ポン酢につけて食べると最高です!ヒロメが世界に羽ばたく日もそう遠くないのかもしれませんね。

AIに負けない「人間力」とは? 

AIに負けない「人間力」、それは問いを立てる能力だと思われます。問題意識を持つこと、問題設定能力、常識を疑う能力、もしくは好奇心と言い換えてもいいでしょう。

 

答えが決まっている事柄に関しては、計算機のような機械が答えてくれます。例えば1+2=3であったり、フランス革命は1789年に起こったといったような類いの話です。明確な答えがないような事柄に関しては、AIが膨大なデータを分析して推論というかたちでの答えを出してくれます。株価の動向であったり、内定辞退率、融資返済率などです。推論とは、確定はできないが、経験則からおそらくこうなるであろうという予測をする能力です。ヒューリスティックなどとも呼ばれています。計算機であれAIであれ、質問をすれば何らかの答えは大体返ってきますが、質問そのものを創り出すことはできないでしょう。問いを立てる能力は、やはり人間にしかないと思われます。

 

ITやAI関連の論評を行なっているアメリカの著述家、ケヴィン・ケリーの著書『〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則』の文章を引用します。

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「社会は厳格な階層構造から分散化した流動性へと向かっている。それは名詞から動詞に、手に触れられるプロダクトから触れられない〈なっていく〉ものになっていく。固定されたメディアからぐちゃぐちゃにリミックスされたメディアになっていく。保存から流れに変わる。価値を生み出す原動力は、「答えの確かさ」から「質問の不確かさ」へと移行している」(服部桂訳)

 

著書は質問力の有無が人間とマシンを隔てると述べています。人間には質問力があるが、マシン(AIを含む)にはないと。厳密に言うと、良い質問をする能力は人間にしかないと述べています。では良い質問とは何でしょうか。いくつかの条件を上げていますが、まとめると、既成概念に挑み、思考の新しい領域を切り開くものだと述べています。常識を疑う能力とも言えるでしょう。常識が必ず正しいとは限らないですよね。ある時代や状況においては正しいことであったとしても、状況の変化によって最適解は変わってきます。

 

私が従事している漁業を例にとって考えてみます。江戸時代にはマグロの大トロは不人気で廃棄されていました。現在では最高級食材の一つです。食の嗜好の変化や流通の進化が背景にあるのでしょう。現在、未利用魚と呼ばれている魚があります。ほとんど流通せずに廃棄されている魚たちです。売れないということは、美味しくない魚だというある種の常識が消費者や水産関係者の間ですら、出回っています。私は様々な未利用魚を試しに食べてみました。実はかなり美味しい魚が沢山あります。例えば、カゴカマスです。消費者が目にする機会は、ほとんど皆無と言って間違いないでしょう。下記が写真です。宣伝や販売等を工夫したら、十分売れる魚になると思われます。常識を疑うことで、新たな道が拓ける可能性があるという一例です。

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日常生活においても様々な常識がありますよね。周りがこう言っているから、今までこのようにやってきたから、「普通」だから、などなどの理由で現状維持に傾きがちです。変化が激しく、流動性を増していくこれからの時代には常識を疑い、新たな領域を切り拓く能力が必要とされてくるだろうと思います。

 

誤解のないように述べておきますと、常識イコール間違えているという意味ではありません。ある考え方が長期間に渡って持続してきたということは、何らかの意味があるとも十分に考えられます。何でもかんでも変えればいいとは思いません。一度、常識を疑ってみて、必要だと思えば残せばいいですし、もはや必要ないと考えるのであれば、変えればいいと思います。

 

いかがでしたでしょうか。変化の激しいこれからの時代において、AIに負けない「人間力」を身につける必要があるのではないかという話でした。AIに負けない「人間力」とは、問題を立てる能力、好奇心、常識を疑う能力ではないでしょうか。私自身を含めて人間は保守的な生き物ですので、現状維持に傾きがちですが、これからの時代には、常識を疑って、新しい領域を切り拓く能力が必要とされてくるだろうと思います。

真の知者とは? 〜教養として聖書を読んで〜

知者とはどのような人物を指すのでしょうか。一般的には優れた見識を有し、正しく物事を判断できる人間、となるかと思います。この意味での知者に人間は本当になり得るのでしょうか。聖書を通して、真の知者とは何者かについて考えてみます。

 

聖書は言うまでもなくキリスト教聖典です。正確に言うとキリスト教ユダヤ教聖典です。聖書は新約聖書旧約聖書から成っています。キリスト教聖典新約聖書旧約聖書です。ユダヤ教聖典旧約聖書です。ただし、ユダヤ教徒は自らの聖典旧約聖書とは決して呼びません。タナハと呼びます。

 

私自身はキリスト教徒でもユダヤ教徒でもありません。葬儀や法事の時は仏教、お正月は神社に初詣に行きます。つまりは特定の信仰を持たない、平均的な日本人です。そんな私が何故、聖書を読んだかと言うと、人間や社会に対する理解を深めるためです。聖書は世界で最も読まれている書物であり、現代社会にも多大な影響を与えています。教養として聖書を読む意義は十分にあると思っています。私はミッション系の大学に通っていましたので、それなりに聖書を読んだことがありましたが、すべては読んでいませんでした。この度、旧約聖書新約聖書のすべてを読みました。

 

最初の問いに戻ります。真の知者とはどのような人間のことを言うのでしょうか。逆説的表現になりますが、自らは無知であることを知っている人間、となるのではないでしょうか。ソクラテスの言ったとされる「無知の知」です。謙虚な人間とも言えるでしょう。聖書でも謙虚な人間を褒め称え、傲り高ぶる者、傲慢な人間を厳しく戒めています。3つの例をあげます。

 

一つ目は有名な旧約聖書の創世記のアダムとイブ(エバ)の話です。楽園に暮らすアダムとイブは神から禁じられていた、善悪の知識の木になる果実を食べてしまいました。神は怒り、アダムとイブを楽園から追放し、苦難の道を歩ませることなったという話です。この話が述べているのは、本来、人間は善悪の知識、つまり物事を正しく判断する力を持っていないということかと思われます。生半可な知識を身につけたことで不幸になったと。

 

二つ目は旧約聖書ヨブ記です。ヨブは敬虔で正しい人物とされています。そんなヨブですが、苦難に直面し、神を責めます。

「神よ わたしはあなたに向かって叫んでいるのに あなたはお答えにならない。御前に立っているのに あなたはご覧にならない。あなたは冷酷になり 御手の力をもってわたしに怒りを表される。」

神は怒り、答えます。

「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて 神の経綸を暗くするとは。」

ヨブは神に謝罪します。

「わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。」

神はその後、以前にも増してヨブを祝福されたという話です。この話は人間の知識や知恵は不完全であることを述べていると思われます。

 

三つ目は新約聖書のマタイによる福音書です。弟子がイエスに天の国で誰が一番偉いのか尋ねます。イエスはこう答えます。

「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」

つまりは自らには知識や知恵があると傲り高ぶる者ではなく、無垢で自らを低くする人間が最も偉いと。

 

聖書では知識や知恵そのものを否定している訳ではありません。知識や知恵を褒め称える記述も多いです。例えば、有名なソロモンの知恵などです。ただ、聖書で褒め称えられている知者とは、自らを知者であると傲り高ぶる者ではなく、自らの不完全さを認め、神を敬う敬虔な信者のことだと思われます。

 

私自身はキリスト教徒でもユダヤ教徒でもないので、真の知者とは神を信じる敬虔な信者だと言われても納得はできないです。ただ、自らの不完さを真摯に認める人間、謙虚な人間、「無知の知」を知る人間が真の知者だという考え方には完全に同意します。自らは知者であると傲り高ぶる人間は、成長しませんし、他者から尊敬されることもないでしょう。そのような人間はカルロス・ゴーンのような末路を辿ることになるのでしょう。自分は不完全な人間であることを認め、謙虚に学び続ける人間でありたいと思います。