田舎暮らし in 熊野

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天空の郷・果無集落で「何も無いこと」の意味を考えてみた。

先日、奈良県十津川村を車で走っていたら、果無集落の道標を見つけました。聞いたことのない名前でしたが、ロマンチックな名前に惹かれて、訪問しました。果無、果てが無い、つまりは終わりが無い、無限、永遠みたいな意味でしょう。

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狭い山道を3kmくらい登っていくとたどり着きました。見渡す限り山々が広がっていました。とても美しい集落です。山の上にあるので、涼しいです。風もよく通ります。

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集落といってもぽつんぽつんと数軒の家があるだけです。

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滝もありました。そこまで大きな滝ではないですが、水量がすごいです。

 

果無の名前の由来が気になります。果てし無く山々が広がっているという意味なのでしょうか。詳しくは分かりません。個人的には、想像力の源泉が果てし無くあふれる土地、という意味なのではないかと想像します。

 

果無集落には自然を除いてほとんど何もありません。何もないと、人間のある種の感性が研ぎ澄まされ、想像力が高まるのかもしれません。

 

夜は漆黒の闇に包まれ、満天の星々がさぞかし美しいことでしょう。星空を眺めながら、遥か彼方の星たちについて想いを馳せます。人間が見ている星の光は、実は過去の光に過ぎないのです。1万光年離れている星であれば、人間が見ている星の光は1万年前の光です。ということは、その星はもはや宇宙に存在しないのかもしれません。果無集落に暮らしていたら、そんなことを想像するのかもしれません。

 

あるいは野生動物について。果無には、様々な野生動物が生息していることでしょう。鹿、猪、熊、猿、イタチなどなど。夜になれば、悲しそうな鹿の鳴き声を聞く機会も多々あるでしょう。何か悲しいことがあったのかな、親を亡くした小鹿が泣いているのかな、などと想像するのかもしれません。

 

果無には何も無い、だけど何でも有る、といった逆説が成立するのかもしれませんね。人間は何もなければ、想像の世界をふくらませます。果てし無い想像の世界が、そこに存在するのかもしれないです。対して都会生活においては、あらゆる欲望は可視化、具象化されていますね。グルメ、買い物、映画、巨大な人々の流れ、めくるめく夜の世界などなど。こういう世界に生きていると、人間は自らの内面を深く見つめたり、想像力を働かす機会が減るのかもしれません。その意味では、都会には何でも有る、だけど何も無い、という逆説もまた成り立ち得るのかもしれないですね。

 

いかがでしたでしょうか。果無集落を訪問し、「何も無い」ことの意味について考えてみました。果無には何も無いけれども、何でも有るという逆説が成立するのかもしれません。人間は何も無ければ、想像の力によって、豊かな精神世界を築くことができるのかもしれないですね。