雨降る東京と「ポートレイト・イン・ジャズ」
夏が終わり、秋雨の季節が近づいてきました。今回は雨と音楽をめぐる個人的な思い出話をしてみます。
ビル・エヴァンスの『オータム・リーブス』を聞くと、雨に濡れる東京丸の内超高層ビル群の夜景が浮かんできます。
ビル・エヴァンスはモダンジャズを代表するアメリカのジャズ・ピアニストです。代表作『ワルツ・フォー・デビイ』はジャズの傑作としてよく知られています。他にも『サンデイ・アット・ザ・ビィレッジ・ヴァンガード』『ポートレイト・イン・ジャズ』などの素晴らしい作品を沢山残しています。『オータム・リーブス』は『ポートレイト・イン・ジャズ』というアルバムに収録されている曲です。もともとはフランスのシャンソンの楽曲です。
今から10年前、約8年間過ごした東京を転勤で離れることになりました。ちょうど東京を離れる日の出来事です。夕方にアパートを引き払い、新幹線に乗るために東京駅に向かいました。昼過ぎまでは晴れていたのですが、夕方からポツリポツリと雨が降り始め、東京駅に着く頃にはどしゃ降りになっていました。
新大阪行き、のぞみの自由席に乗りこみ、ビル・エヴァンスの『オータム・リーブス』を聞きながら、雨に濡れる車窓から丸の内の超高層ビル群の夜景を眺めていました。発車までの短い時間に、東京での8年間を回想しました。一人暮らしを始めるため、18年一緒に過ごした家族と離れた時のこと、初めて見た時の歌舞伎町のネオン街の輝き、毎日のように通った渋谷スクランブル交差点の雑踏、表参道の街路樹の揺らめき、異常に冷房の効いた真夏の京浜東北線の満員電車内の空気、そしていろいろな人との出会いや別れ。自分にとっての一つの時代が終わってゆくのだという感慨。
やがて新幹線は動き始めました。雨に滲んだ丸の内の超高層ビルの夜景は、瞬く間に車窓から消えてゆき、『オータム・リーブス』の乾いたジャズピアノの演奏が残りました。
音楽ってある種の記憶や情景と深く結びつくことがあるのかもしれませんね。あれから10年経った今でも、『オータム・リーブス』を聞くと、車窓から見た雨降る丸の内の超高層ビル群の夜景をくっきりと思い出します。そして、その時に回想したことを。この記憶もいずれ薄れていくのでしょう。波に侵食される岩のように。徐々に、そして否応なく。