田舎暮らし in 熊野

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世界一危険な漁に挑んだ日本人の物語

本州最南端の地、和歌山県串本町の潮岬を訪れました。台風襲来の際に、荒れた海の様子がテレビでよく放映されるところです。実際に潮の流れが速く、波も高い航海の難所です。

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かつてこの地からオーストラリアの木曜島に渡って、世界一危険と言われていた白蝶貝漁に挑んだ日本人がいました。白蝶貝は、高級ボタンの材料などになります。明治から昭和初期の出来事です。潮岬に彼らの功績を伝える資料館と石碑がありました。あまり知られていない出来事だと思いますので紹介します。

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最盛期には、木曜島に渡った日本人は1000人を超え、島の全人口の約6割を占めていました。その中でも串本町出身者が多かったのです。白蝶貝漁は、大変危険な漁でした。今のような酸素ボンベもない状態で、深いところでは水深50mまで潜りました。下の写真は、実際に使用されていた潜水ヘルメットです。

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木曜島周辺だけで約700名もの日本人が、白蝶貝漁によって命を落としました。勇敢な日本人ダイバーは、現地でも名声を得ていました。やがて第二次世界大戦が近づくにつれて、日本人による白蝶貝漁は、事実上の終焉を迎えました。

 

今の日本は経済的に豊かになり、海外に出稼ぎに出たり、移民になる人はとても少ないですよね。今では、外国人を受け入れる側になりました。かつての日本では、貧しさから海外に渡る人も多かったのです。明治から昭和初期にかけての話ですので、そんなに遠い過去ではないですね。

 

私は忘れずにいたいです。かつて、はるか遠く海を渡り、命がけの漁に挑んだ日本人がいたことを、数々の苦難に直面し、幾度も頰を流れたであろう涙の感触を、帰郷を願い、海の彼方の故郷を眺めていたであろうまなざしを。

 

木曜島には、現在でも日本人墓地と慰霊碑があります。かつて海を渡った日本人の子孫が現在も木曜島に住んでおり、8月15日にお盆行事を行い、先祖を追悼しています。

 

かつてこの地から木曜島に渡った日本人を想い、潮岬の海を眺めました。ふと潮風が通り過ぎていきました。