田舎暮らし in 熊野

田舎暮らしの日常、旅行、グルメ、読書について書いています。

「人間中心主義」は終焉したのか 〜フーコーの『言葉と物』を読んで〜

分かりやすくニュースを解説する池上彰氏、分かりやすい言葉で政治を語る政治家、難しい専門書を分かりやすく説明した解説書などなどが人気ですよね。では「分かる」とは何を意味しているのでしょうか。物事には名前(言葉)があり、人間はその言葉の意味を理解することができるということかと思います。この前提となっているのは、人間が物事と言葉の間に立ち、言葉に意味を与えているという認識でしょう。人間には理性が備わっていると。「人間中心主義」や「合理主義」と言い換えてもよいでしょう。フランスの哲学者、ミシェル・フーコーは1966年に出版された『言葉と物-人文科学の考古学』の中で「人間中心主義」は19世紀に西欧で生まれた、特殊なエピステーメー(認識の枠組み)に過ぎないのであり、間もなく終焉を迎えるであろうと述べています。

f:id:kumanonchu:20200315103219j:image

フーコーは『言葉と物』の中で、西欧における認識の枠組みの歴史的変化について述べています。中世までは言葉と物は「類似」によって直接に結びついていました。例えば、星について考えてみます。星は夜空に輝く物体であると同時に、暗闇に光を与える人間の目に対応します。また、あらゆる植物を育む母胎となり、生命全体ともつながってきます。このように中世までの西欧では言葉と物が「類似」を通して、網の目のように際限なく交錯しあっていました。近代に入ると、人間が言葉と物の間に介入し、言葉と物の直接的な結びつきが切れてしまいました。人間が物を分析(細分化、計量化)し、意味を付与するようになったのです。星を例にとると、近代人にとっての星は、地球からの距離、サイズ、熱量などのように人間によって、狭い意味が与えられる存在になりました。

 

フーコーは本書の中でこう述べています。

「近代の《エピステーメー》のすべてー18世紀末ごろ形成され、なおわれわれの知の実定的基盤として役だっているそれ、人間の独異の存在様態と人間を経験的に認識する可能性とを成立せしめたそれーこの《エピステーメー》のすべては、〈言説〉とその単調な統治の消滅、客観性の側への言語の変位、そしてその多様な再出現とつながっているのである。その同じ言語が、いまやしだいに執拗さをましながら、われわれが思考しなければならぬがまだ思考しえぬ、一つの統一性の中に浮かびあがってくるとすれば、それは、この布置のすべてがいまや崩壊しようとし、言語の存在がわれわれの地平によりつよく輝くにしたがって、人間が死滅しつつあることのしるしではなかろうか?言語が分散を余儀なくされたとき人間が成立したとすれば、言語が集中しつつあるいま、人間は分散させられるのではなかろうか?」(渡辺一民佐々木明訳)

 

難しい表現ですね。。。おそらくこういう意味だと思います。近代西欧で生まれた特殊な認識の枠組みである、「人間中心主義」は、限界に来ており、間もなく終わりを迎え、言葉と物が多様に結びつき、人間が世界との統一性を維持していた、中世以前の認識の枠組みに戻っていくであろうと。

 

「人間中心主義」は終焉したのでしょうか。哲学の世界では、構造主義の登場などによって終焉したのかもしれません。しかし、一般的には「人間中心主義」的な認識の枠組みは根強く残っているように思われます。学問の世界でもビジネスの世界でも物事を細分化、計量化し分析する傾向は今でも強いと思います。フーコーの予言した「人間中心主義」の終焉はまだ先になりそうです。

 

かなり難解な本でした。完全に理解できたとは到底言えないですが、物事の考え方やとらえ方(認識の枠組み)というのはあくまで相対的なものに過ぎないのだなと思いました。時代や場所によって変わってくるのでしょうね。当たり前といえば当たり前の話ですが、普通に生活していると忘れがちです。そして、現代人の考え方は昔の人のそれより進んでいるとは必ずしも言えないのでしょう。中世以前の人々は現代人よりも総合的に生きていたのでしょう。言葉と物の多様な結びつきを通して。