田舎暮らし in 熊野

田舎暮らしの日常、旅行、グルメ、読書について書いています。

葬礼に見る矛盾する人間の本能 〜忘却と記憶の間で〜

昨日、奈良県明日香村の石舞台古墳を訪れました。7世紀初頭に築かれたと考えられています。蘇我馬子のお墓との説が有力なようです。石の下は空洞になっていました。

f:id:kumanonchu:20191110142200j:image

f:id:kumanonchu:20191110142231j:image

地震や台風などの災害にも耐えて、1000年以上も姿を保っているとは驚きです。有名なお墓としては、日本ですと、仁徳天皇陵でしょう。海外に目を向けると、エジプトのピラミッド、中国の秦の始皇帝のお墓、エルサレム聖墳墓教会にある、キリストのお墓などがよく知られていますね。私は2年ほど前にエルサレムの旧市街地にある、聖墳墓教会を訪れました。若い女性クリスチャンがお墓の前で膝をついて、涙を流しながら祈っている姿が印象に残っています。

 

さて、人は何故お墓をつくるのでしょうか。記憶を残すためでしょう。亡くなった後も、ある人間が生まれて生きた記憶を後世に残したいという願いの発露だと思われます。忘却と風化に抗い、死後も人びとの記憶の中で生き続けたいという、人間の「生の本能」の現れと言えるのではないでしょうか。

 

現代ではお墓に葬られる人が多いですよね。実は日本では、江戸時代中期までは散骨などの自然葬が主でした。自然葬とは、お墓を作らずに遺体を自然に帰す葬礼です。インドに多いヒンドゥー教徒は、現在でも自然葬を行なっています。遺体を焼いた後に、遺骨をガンジス川に流すのです。自然葬は、忘却の彼方に身を委ねたいという、人間の「死の本能」を表しているのではないでしょうか。

 

忘却と風化に抗い、死後も人びとの記憶の中で生き続けたいという「生の本能」と、忘却の彼方に身を委ねたいという「死の本能」が人間には混在しているように思えます。フロイトは人間の中にはエロス(生の欲動)とタナトス死の欲動)がせめぎ合っていると述べました。ニーチェは、古代ギリシア文明にはアポロン的なものディオニソス的なものが混在していると述べました。

 

いかがでしたでしょうか。お墓への埋葬は人間の「生の本能」、自然葬は人間の「死の本能」を現しているのではないかとの話でした。人間の中には「生の本能」と「死の本能」がせめぎ合っているのかもしれませんね。現代においては、「死の本能」について語ることはほぼタブーとなっていますね。最近、自然葬を希望する人が増えているようです。フロイト的な表現をすると、抑圧された「死の本能」が自然葬を希望するという形で回帰してきているのかもしれません。